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安堵しながら動揺する
 ひどく遠い感覚だった。
――自覚がない。
 きっとその言葉が最も適切だったのだろうと思う。


 「恋人」なんて甘ったるいだけの言葉は、耳慣れたものなだけの遠い代物だったから。








「渓兄ちゃん、今日僕たち帰り遅くなるね」
 朝、ドタバタと廊下を駆ける双子。
「僕たち――ってことは、リョウも遅くなるのか?」
 別に構いやしないが、あまり遅くなるようなら何か頼まないといけなくなるな、と面倒に思う。
 それが顔に出ていた訳ではないと思うが、コウは苦笑しながら、
「うん、でも僕とリョウは別行動。僕は史桜ちゃんと出掛けるから」
「史桜?」
「リョウもちょっと遅くなるかもだけど、それは掃除当番」
「待て。なぜ史桜がお前と出掛ける?」
「僕が一緒に遊ぼうって誘ったから?」
 一瞬、本当に一瞬、人に殺意を向けると言う意味を理解したかもしれない。
「うん、とにかくそう言うことだから、ごめん史桜ちゃん借りるね」


 溜息を殺した精神力を誰か褒めてくれ。






 トントントントントントントントン。
 タンタンタンタンタンタンタンタン。
「あのさー渓。ちょっとは静かにしたらどうなの」
「うるさい」
「はぁー……男の嫉妬って醜いって知ってた?」
 あからさまな蒼の溜息に、思いっきり睨みつける。
「知るか。それに俺は別に嫉妬も何もしていない」
「だったらその貧乏ゆすりと机叩くのやめてくれると嬉しいんだけどね」
「っ。……お前は、そんな軽口叩けるならいい加減登校したらいいだろうが」
 ちょっと熱が、なんて言ってリビングでゴロゴロしているが、体調がそれほど悪くないのは顔色を見ればわかる。
 見分けが難しい時もあるが、今回は確実にただのサボりだ。
「うーん、それを注意してくれるのが史桜なら聞くんだけどなー」
「馬鹿言うんじゃない。誰であっても関係ないだろう」
「えー?そんなことないって。史桜もこんな小言ばっかの奴のどこがいーんだろ」
 うるさい俺が知るかそんなの史桜に訊けばいいだろう。



――――それを一番訊きたいのは、間違いなく俺だ。




 夕方。
 いつもより1時間ほど遅れたタイミングで、案の定リョウだけが帰宅した。
「コウ?ああ、古城と出掛けたなホントに」
「…そうか」
「べっつに気にしなくてもいーんじゃねーの?どうせあいつコウと出掛けたくらいで渓がどう思うかなんて考えてないぜ?」
 それだけ言うと、あっちーなどと文句を言いながら奥のリビングへ入っていく。
 桜が咲いていようがいまいが、夏は平等に初音島にも訪れる。
 今日も見事なまでに桜の花が咲き乱れ、そして盛大に散っていっていた。


 蒼の病状改善のためにこちらへ越してきてもう1年が過ぎた。
 そしてそれは、史桜に出逢ってからの月日も表していた。
 なんたって、顔を見ただけなら引っ越し初日から見ているわけだから。
 あの時は家庭教師を引き受けることになるなんて思っていなくて、ましてや付き合うなどと考えなかった。
 史桜に教え子と言う以上の感情を持っていなかった出逢った頃を懐かしいとは思わない。
 あの頃に戻りたいとも思わない。
 ただ、極たまに―――今日のように史桜が俺以外の誰かに笑いかけてるだろう時は、何かが不安になる。

「俺らしくない、か」

 不安はただの気のせいだ。
 そう結論付けた時、玄関のチャイムの音がした。
 


「史桜?」
「あ。渓さん、こんばんは」
 玄関を開けると、そこには史桜がいて、ぺこっと礼儀正しく頭を下げた。
「こんばんは…いや、そうじゃないだろう。この時間にどうした?」
「どうしたってことないでしょう?僕と出掛けてたんだから、その帰りに寄ってもらっただけだよ」
「コウ?」
 声に気づいて、その声のする方を見ると呆れたように軽く睨まれた。
「渓兄ちゃん?史桜ちゃんと仲がいいのはいいけど、弟忘れるのはやめてくれない?」
「別に忘れたわけじゃない」
 ただ視界に入らなかっただけで。
 さすがにそれは口には出さないでおいたが、何かは伝わったらしい。
 また睨まれて、盛大にため息をつかれた。
 今日だけで何度ため息をつかれたか分からない。
「とにかく、来たからには上がっていくだろう?」
「あ、いえ、今日は早く帰らないとお兄ちゃんに怒られちゃうので」
「あのシスコン教師にか」
「あははは……」
 妙に妹にべったりな堅物教師の顔を思い出して、うっかり気分が悪くなる。
 おかしいんじゃないかと思うほど妹中心の思考をしているあの兄貴は、こんなところで邪魔してくれる。
―――おかしいと言えば、家庭教師をしていた頃、家中のあらゆるところに隠しカメラがあったのはやはり俺と関係があるのだろうか。
 今更それを思い出して、さらに苛立ちが募ってしまった。
「……まぁ、それはいいとして。じゃあなぜ家に寄った?」
「ダメでしたか?」
「………そうじゃない」
「ならよかったです!渓さんいるかなーと思って、ちょっと会いたくなって来ちゃいました」
「!」


 きっと史桜には些細な一言なのかもしれない。
 いつも交わす会話の中のさりげない一言。


「あと、これです」
「?……これは?」
「付き合い始めて1年過ぎたので、その記念品みたいな感じで………えーっと、ダメですかね。子供っぽいですか!?」
 渡されたのは、
「メダイユ―――か?」
「はい!知ってたんですかこれ?」
 ペンダントの一種と思っていいのかどうか分からないが、それに類似したものだろう。
 一般的には教会やマリアだけが彫られている印象だが、これは少し違うようだった。
「マリアに……これは?」
「桜の花びらみたいですね」
「……………なぜそんなものがマリアの周りに舞っているのか訊いてもいいか?」
 なんとなく答えは分かっているが、それにしても本当にそうだったら呆れてものが言えなくなる。
「初音島だからじゃないですか?」
「………………だろうな、何となく分かっていた」
「でも、綺麗かなって。見てて一番気に入ったのがこれだったんです」
「…そうか」
 いかにも楽しげに微笑む史桜に釣られて笑ってしまう。
 こうして史桜に釣られるようにして笑うことはこの1年でとても増えた。自覚を持てるほどに増えた。
 それがきっと自分にとってプラスなのだと言うことも分かる。


「私が一番に見せたいって思ったのも、渓さんだったんですよ?」


 不意打ち。
 秘密を打ち明けるように、少し爪先立ちをした史桜が耳元に顔を寄せたから。


 いつまで経ってもこの感覚になれない自分を呆れながら思う。
 こういうのも悪くないし、いつまで経っても慣れないほど史桜を好きだと思ってるってことだろう。




 問題は、史桜がこうして思いを返してくれることに安堵しながらも、その現実があまりに近くて動揺を隠すのに精いっぱいになることだ。




 久しぶりの更新は渓SSで。
 渓も大好きだ。特に2週目周るとなおさら好きになる。
しるかぎりのことばを ああ、この想いは恋だったのか
※提供サイト様のURLが見当たらなかったためサイト名を書くだけになりました。
 申し訳ありません。
掲載: 10/05/27