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白に染まる街

「今年は日本で過ごそうかなって思ってるんだ」
 高校生最後の10月。
 恋人からの電話は嬉しいニュースだった。
「でも、クリスマス公演の依頼来てたんじゃ・・・?」
「うん、断ってしまったのもあるよ。でも、中には日本からの公演依頼もあったから。それだけはやろうって思ってる」
「じゃあ、クリスマスに先輩の音が聴けるんですね!」
「そうだね、25日は公演が入ってるけど、24日は何とか空けたから。逢えるよ」
 王崎の嬉しそうな、どこか弾んだ声に香穂子も笑みがこぼれる。
 半年以上、日本とオーストリアという、遠距離恋愛もいいところな生活が続いていた。
 それでお互いの心が揺れるとは思っていなくとも、寂しいと思う気持ちは確実にあって。
「ギリギリだからちょっと不安だけど、日本には23日に帰る予定なんだ」
「じゃあ、迎えに行きますよ」
「悪いからいいよ。気にしないで」
 日本に着くのは、予定だと夜遅くなんだ。
 付け足された言葉に、少し凹む。
一刻も早く逢いたいと思うのに、フライトの時間を考えれば逢えるはずもない時間で。
「分かりました・・・」
「そんな声出さないで。俺も早く逢いたいよ。24日、朝一で君に逢いに行くから。待っていて?」
 少し寂しそうな声で言われれば、私だけじゃないんだと思う。
「はいっ」
 少しだけ元気を取り戻した香穂子の声に、王崎は安堵したように微笑んだ。




 街中はイルミネーションに彩られ、どこの店を見てもクリスマス一色になった24日。
 街全体がそわそわと浮き足立っている。
 通りを見れば、仲の良さそうな恋人同士が歩いていたり、数人の女の子がプレゼントを選んでいたり、もうそろそろ夕食の時間だからと外食に来ていたり。
 どこもかしこも幸せそうだ。
「久し振りだなあ、香穂ちゃんとこうして歩けるなんて」
 幸せそうに隣を歩く香穂子を見ながら、王崎も目を細める。
 繋いだ手はこんなに小さかっただろうか。
 並んだ彼女は、こんなにも華奢だっただろうか。
 それに、彼女はこんなにも大人っぽく、綺麗だっただろうか。
 前に会ったときは下ろしていた髪も今は丁寧に結い上げ、一層彼女を美しく見せている。
「私だって、王崎先輩と日本でこんな風にクリスマスを過ごせるなんて思ってませんでしたよ」
 ニコニコとそう言う彼女に少し申し訳なさが募る。
「ごめんね、ウィーンなんて遠いところに行って、君を置いていくようになってしまって・・・」
「え、謝らないで下さい!別にそんな意味で言ったわけじゃないんですから」
「分かってるけど・・・やっぱり、寂しい思いさせているのは分かってるし・・・」
「いえ、本当に!それに、来年は私もウィーンですよ。留学してみようって気になったのは、先輩のお陰なんですから」
「そう・・・だね、来年は一緒だね」
 今年学院を卒業する香穂子は、そのまま2年だけの短期留学でウィーンの音楽院への留学が決まっていた。
 実質1年の入学で、4月から9月の入学までは王崎と一緒にレッスンに集中することが決まっている。
「それに、私も向こうが気に入ればそのまま住んじゃってもいいかなあって思ってますし」
 繋いだ手と反対側に持っているヴァイオリンケースに目を落とす。
「そっか。それなら嬉しいな。きっと君も気に入るから。やっぱり環境としては、日本よりも合っているし、ヨーロッパを無視して音楽は語れないのと一緒だと思う」
 そうしてまたふと笑う。
「そうだ。話は変わっちゃうけどいいかな」
「はい?」
 ええっと。
 そう言って王崎はベンチを探すと、座ろうと促した。
「うん、話は変わっちゃうけどね。これ、はい。明日のコンサートのチケット。まだ渡してなかったでしょう?」
 25日公演のSSチケットが2枚。
「え、もらっていいんですか?」
「当たり前でしょう。お母様と一緒に来たらどうかな」
 と笑ってみるが、香穂子は困ったようにバッグを開けた。
「ごめんなさい。私、自分で買ってしまったんです」
 取り出されたのは、同じ公演のチケット2枚。
「えっ?」
 クリスマスコンサートが決まった頃に、もう買ってしまったと申し訳なさそうにする香穂子に、同じように申し訳なさそうに王崎も謝る。
「それは・・・悪いことをしてしまったね。先に送ればよかった。それにチケットはこっちで確保するからって伝えればよかった」
 前から10列目のほぼ中央。
 コンサートで言ったら、なかなか取れない席だ。楽器によってもコンサートは売れる関が違ってくるが、大体どの公演でもこの辺りは外れがない。
 そんな席を王崎は取っておいてくれたらしい。
「じゃあ、このチケットどうしよう・・・」
 買ってしまったほうのチケットをひらひらと振る。
 公演がここまで間近に迫っていると誰にも渡せなくなってしまっている。
 加地、土浦、火原、志水、冬海・・・欲しがりそうな名前を挙げて行くけれど、これから会おうと思って会える人たちではない。
「ムダにはできないし・・・」
「え・・・あれっ」
 香穂子がふわと、振っていたチケットを飛ばしてしまった。
「え、なんでしょう、これ」
「チケット・・・ああ、明日公演のだね」
 美男美女、と形容して差し支えないような二人が、飛ばされたチケットを拾った。
「どこから飛んで・・・」
「あ、ごめんなさい、それ私ので」
 香穂子が思わず駆け寄ると、青年が「君のだったんだね」と微笑む。
「明日なんだね。これ、とても人気のあるチケットだったんだよ」
「え?」
 後から追いかけるように香穂子と自分のヴァイオリンケースを持って来た王崎で、おもわずハモる。
「本当は欲しかったんだけどね。間に合わなかったらしくて・・・って・・・あれ。すみません、もしかして王崎、信武さん・・・ですか?」
「知ってるんですか?」
 ほけっと話を聞いていた少女が、驚いたように目を見張った青年にそう声をかける。
「人違いだったらすみません。似ているなと思ったもので・・・ケースも持っていらっしゃいますし」
「ええっと、はい、確かに王崎です。まさか顔を知っている人がいるなんて思わなかったな」
 コンクールから凱旋した時のことが嫌でも思い出される。
 あの時はいきなりの出迎えに、かなり混乱していた。
 変わったつもりはなくても取り巻く世界は一変していた。そんな中で香穂子だけは変わらず傍にいてくれたのだと、思い出す。
 それだけが日本に凱旋した時の優しい思い出だった。
「やっぱり。君も少し前に聞いたはずだよ。この前聞いたクラシックのCDあったよね。あれの奏者だよ」
「そうだったんですか?わあ、こんなところで会えるなんて、すごい偶然ですね」
 はしゃいだように笑う姿も可愛らしい。
「・・・あの、さっきこのチケット手に入らなかったって言ってましたよね?」
「え、ああ、はい。まさかクラシックコンサートのチケットが2日で完売とは思わなくて」
「もしまだ行けるようなら、これどうぞ。2枚あるので」
「そうだね。ちょうど2枚だし。よければどうぞ」
 少し後ろのほうで申し訳ないんですけど、と香穂子が付け足すと、やはり困惑される。
「でも・・・」
「チケットがダブってしまって困っていたんです。よければ」
「・・・どうせ明日は何も予定なかったんですし、頂きますか?」
 おずおずとそう言う少女に、青年も少し戸惑いながらもじゃあと手を伸ばした。
「代金は?」
「いえ、いいですよ。あまりいい席取れなかったですから」
 それでも、と言い募る二人に、香穂子と王崎は押し付けるようにして笑う。
「せっかくですから、貰っておいて下さい。明日は喜んでいただけるようなステージにできるよう頑張ります」
「・・・・・・じゃあ、明日、花を届けさせていただきます。ありがとうございました」
 お互い会釈で別れる。向こうはもう少し言いたそうだったが、見なかったことにする。
「貰い手が見つかってよかったですね」
「押し付けちゃった感じだったけどね」
「あは、少し強引だったかなあと思ったんですけど、できるだけ多くの人に先輩の音聴いて欲しかったし」
「ありがとう」
 そうして、また手が繋がれる。
 周りはもう暗くなってきていて、イルミネーションに明りが灯されはじめた。
 手袋をしていても、マフラーをしていても、やっぱり吹き付ける風は冷たい。
「もうそろそろ夕食の時間だね。この辺りのレストランでよければまだ空いてそうだけど、入る?」
「私はそれで。先輩はいいですか?」
 うん、と頷くと近くの、まだそれほど客の入っていないイタリアンレストランに入った。





 もう夜も7時を回った頃。
 ゆっくり食事をして、そのまま暖かい店内で話も弾んでいたが、さすがに客も多くなり出ようとなった。
「遅くなってしまったね。ごめん。門限は?大丈夫かな」
「はい、王崎先輩と出かけるって行ったら、門限少し遅くしてくれましたから」
「え、あ、そうなの?」
 その言葉の意図がイマイチ分からないが。
 これはどういう意味だろう、と悩む王崎の横でさむーいと身を縮める香穂子だ。
 どう考えてもそんな雰囲気にはなりそうにない。
 いいけどね、と肩を竦ませて香穂子の肩に手を回す。
「寒い?またどこかカフェにでも入ろうか?」
「うーん・・・それもいいんですけど、公園の方、行ってみませんか?」
「公園?」
 こんな夜に海辺の公園で寒くないのかと思うが、香穂子が行きたいと言うなら。
 そう思って王崎も頷く。
「うわあ、やっぱりここもイルミネーションが綺麗ですねーっ」
 向こう岸の観覧車も綺麗、とはしゃいでいる。
「懐かしいなあ。覚えてる?前、あれに一緒に乗ったよね」
「そうでしたね。私の評判聞かないからって心配してくれたんでしたっけ」
 思い出してクスクス笑う香穂子に、王崎も釣られる。
「そうだったね。でも、あの後から他のメンバーよりも噂は聞くようになったし」
「あのときの会話って覚えてます?私のことどう思いますか、って聞いたこと」
「・・・あれね。あったね、そんなことも」
 何がおかしいのかまた笑っている。
 二人とも忘れられない会話だろう。まさかあんなことを聞かれるとは思ってなかった王崎だし、小声ではあったけれど、あんなことを言われるとは思ってなかった香穂子だ。
「でも、あれは本音だったから。5月に出会って、その年の3月まで。丸々1年俺たちは片想いだと思って過ごしてたんだよね」
「ですねえ。片想いの時に日本とオーストリアなんて離れ方しちゃって辛かったですけど、今は先輩の一番は私だって分かるからあんまり辛くないですよ」
「俺もかな。・・・俺たちの想いは音が伝えてくれるから。俺の音はいつも君に向かってる、君の音もそうだって・・・信じていいよね?」
 不意に真剣な表情で訊ねられて、少し戸惑った。
「当たり前じゃないですか。先輩がいるから私は今の音を奏でられてるんです。先輩を想う気持ちがあるから」
 ふと笑うと、そのまま肩を抱き寄せられて、抱きしめられる。
「うん、ありがとう。おかしいな・・・大丈夫って分かってるんだけど、君はしばらく見ないうちにすごい大人っぽくなってしまって、ちょっとだけ不安だったかもしれない」
「もう少ししたらいつでも会えますから。ね?」
 抱き返すと、安心したようにため息が漏れた。
 それから、少し離される。
「音、合わせてみようか?」
 足もとに置いたヴァイオリンケースに手を伸ばして、二人分取り上げる。
「どう?」
「はい!」




 クリスマスにふさわしい音楽。
 アヴェ・マリア。
 穏やかな旋律の中に込められた、敬虔な祈りの言葉たち。
 聖マリアに祝福が訪れたように、私たちにも神の祝福がありますように――。
 そう祈るように合わせる私たちの音に、恋人たちや家族連れが足を止めていくのが分かる。
 珍しそうにしている人たちもいれば、目を閉じて聞き入っていく人も。
「綺麗な音、って言ったらありきたりすぎですか」
 少女が、父親ほども歳の離れていそうな男性にかけた声がふと耳に届く。
「ふふっ、いいんじゃないですか。なんの効果もない空の下でここまでの音に出会えるとは思っていませんでした」
 応える声も聞こえる。
「ずっと会えずにいた私たちへの聖母マリアからの祝福かとさえ思える響きですね」
「・・・神様じゃないんですか?」
「神、かもしれませんが、これはアヴェ・マリアですからね。聖マリアに祈りを捧げている曲だったはずですよ」
「へえ・・・賛美歌は全部神への祈りかと思ってました」
「それが多いでしょうけどね。・・・・・・・・・・でも、そうだな」
「?」
「神がくれた祝福のほうが私は嬉しい。あなたが信じる神は愛なのでしょう?」
 なら、神がいいのですと、傍らの少女の肩を引き寄せたのが見えた。
『神に届く音』なのだろうか、これは。
 香穂子は、自分と王崎の音に聞き入りながら考える。
 聖マリアに届く音、その先にいるはずの神へ届く音。
 それになるのだろうか。
 考えたのは傍らで音を流れるように紡ぎだす王崎のこと。
 私たちが出会えた偶然。偶然から起こった今までの思い出。
 思い出したら、今までのことが全部特別に思えた。
 クリスマスだからだろうか。
 この人の隣でこんなにも幸せに音を奏でていられることに感謝して、お互いがお互いを想っていることがこんなにも特別に感じられるのは。
 出会いは偶然でも、その後の想いは私たちのものだった。偶然の結果が今だとは思わない。
 それでも、この人とこの音への出会いをくれたのが神なら、神に感謝したい。
 最後の一音。
 「神」に届けと祈るように弾ききったアヴェ・マリア。
 見回すと、大勢が香穂子と王崎を取り囲むようにして拍手を送っていた。
 さきほどの二人も穏やかに寄り添いながら拍手を送っていた。
 王崎の方を見た香穂子に、やはり同じように香穂子を見た王崎の視線が合わさる。
 柔らかな空気が。
 和やかな空気が。
 穏やかな空気が。
 その場を包んで、溶けていく。





2007年のクリスマス記念作品。同時公開のフルキスSSがリンクしています。
だからって、名前は出てこないので、フルキスを知らなくても全く問題はありません。
ちなみに、続きがあります。
浮かれ気分の夜

◇ color season 〜誕生日〜
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