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愛情の欠片?
「お兄様!」
 侯爵家の静かな時間は、姫の声で破られた。
「やあ、シャーリー。元気だったかい?」
 元気なのは知っているけれど、形だけでも心配したように声を掛けなければこの我儘で可愛らしい姫――妹はすぐに機嫌を損ねてしまう。
 長年の経験でそれを知っているユージンは、にこやかな笑みでそう言葉をかけた。



 たまには顔を見せなさい、と母親からの厳命を受けたユージンは、仕方なさを億尾にも出さずに笑顔で実家に戻ってきた。
 めんどくさそうに戻ったが最後、母親には睨まれ、妹からは会いたくなかったのかと詰られることは必至だ。
 そんなユージンの内心には気付かないようで、執事がドアを開けるより先に出てきてしまった妹は満面の笑顔だ。
「ええ、もちろん。今日はお兄様がいらっしゃるって聞いてとても楽しみにしてましたのよ」
「ありがとう。―――そんな可愛らしいシャーリーには、これをプレゼントしよう」
 渡したのは一通の手紙。
 きっと、どんな宝石やドレスをプレゼントされるよりも、この一通を待っていたに違いない。
 笑顔をより一層輝かせて、大輪の笑顔を見せてくれる。
「アニーから!?私は部屋に戻っていますわね、また夕食の時に」
 いつもなら纏わりついてくるはずの妹がそそくさと離れてしまう。
 そのことに一抹の寂しさを感じながらも、それはそれでありがたいと思う。
 実家に戻る予定で準備をしていた矢先、事務所に2通の手紙が送られてきて、それを受け取った流れでこちらへ戻ってきたのだ。
 まだ宛名しか確認していない。
 一通はシャーリーへ。
 もう一通はユージンへ。
 差出人はもちろん、アネットとリチャードだ。




 カチャ、と茶器がわずかに鳴る。
 そして、ユージンがカップを手にしたのを合図に、ユージンの自室からメイドは辞した。
―――ようやく一人になれる。
 実家に戻って自室に入っても、荷物を運び入れる者たちや身の回りの世話を焼きたがる者たちが周りをずっと忙しそうに動き回っていた。
 そんな中では手紙を落ち着いて読むこともできない。
 ようやく落ち着いたのは、部屋に夕日が差し込む頃だった。

「アニー、君は幸せかい?」
 手紙を読み進めながら、ふとそう思った。
 口に出してしまって、一人苦笑を漏らす。
 手紙には、流麗とは言い難いながらも随分と読みやすくなった彼女直筆の文字が綴られ、日々楽しく過ごしていると語られていた。
 見るものすべて珍しく、似たようなものでもどこか違っていて面白いと。
 そして、リチャードと共に在れる今が幸せでしょうがないと。
 封筒にはさらにリチャードからの手紙も入っていた。
 こちらは完璧としか言いようがない文字と文法(アニーは話し言葉そのままで書いてくるから少し読みづらい)で、客観的に新大陸での生活を報告してきていた。
 最後には、幸せに暮らしている、と書かれていて、思わず苦笑してしまう。


 二人はたぶんとても幸せに暮らしているのだろう。
 こちらでの華やかな生活は捨て去らなければならなかったけれど、きっと向こうでの生活はこちらの何倍も輝いたものであるはずだ。少なくともあの二人にとっては。
 おめでとう、と言いたい。
 雇い主であり、無二の親友だと思っているアニーがこれだけ幸せなのだ。
 歓迎しないなんて嘘だろう。


 そう思うのに、なにか足りなくて、何かもどかしいのはなぜだろうか。
 幸せかい?なんて野暮なことを口にしてしまったことを自嘲してしまうほどわかりやすく彼女は幸せだというのに。


「お兄様、いらっしゃいます?」
「シャーリー?」
 静寂を破ったのはシャーリーだった。
 夕食まではもう少し時間がある。まだ迎えに来るには早いだろう。
「あ。やっぱりお兄様もお手紙を受け取っていらっしゃいましたのね」
「まあね、仮にも彼女の弁護士だから」
 そう言って笑うと、シャーリーは一瞬痛そうな表情を浮かべて、またいつもの華やかな笑顔に戻った。
 見間違いかと思うほど一瞬。
 だがその一瞬を見逃せない程度には、ユージンはシャーリーの傍に長年いたのだ。
「どうかしたのかい?」
「いえ、ただお兄様もきっと受け取っているだろうから、それも読ませていただきたくて」
「本当に、僕は女の子に妹を掻っ攫われてしまったのかな…」
 やれやれと肩を竦めながらも、妹へと手紙を手渡す。
 シャーリーは受け取ると嬉しそうにすぐさま読みだす。
 しばらくして読み終わったのだろう、顔を上げる。
「アニー幸せそうですわね」
「ああ。こうなってくれなきゃ、僕が彼女にプロポーズした意味もなくなるけどね」
 こうなってくれと望んでのプロポーズだった。
 これ以外の未来なんてない、そんなプロポーズだった。
「…ねえ、お兄様」
「うん?」
「もしあの人が結婚式を壊したりしなければ、お兄様は本当にアニーと結婚していましたの?」
「していただろうね。誓いのキスはしたんだから」
 でも、来た。
 望みどおりに。彼女は覚悟を決めて僕を好きになる予定だったようだから、望んでいたのはきっと僕だけだったろうけれど。
「アニーを幸せにする自信はございまして?」
「あったよ。前にも言わなかったかな、彼女のことは束縛しない。誰を好きであろうと目を瞑る。彼女の好きなように振る舞えばいい」
 いい夫になったと思う。
 だからと言って彼女に「善き妻」であって欲しいとは思わなかったけれど。
 不思議と、それは思わなかった。
 彼女にはリチャードがいたから。それが前提だったから、夫だけに従い、夫を慕い、夫と家族に尽くす、そんな「善き妻」であってくれとは思ったことはなかった。
「…何をそんなに怖い顔しているんだ?」
 以前にも見た、なぜだかわからないけれど怒っているのだけが分かる表情を、またしていた。
「なぜ独占しようとしませんの?」
「もう終わったことなんだから、この話は無駄だと思うけど」
「私が聞いてるんです。お兄様の意見は聞いていません」
 無茶苦茶だと思いながらも、この妹には付き合うしかない。時間が許す限り、付き合ってやらなければならないだろう。
「…何を言わせたいんだかわからないけれどね、あれは彼女の意には沿わないものだった。なら、できる限り彼女の想いを大切にしてやるべきだろう」
「でも、アニーはお兄様だけを好きになると言ったんですわよね?」
「そんな意地のような好意をもらっても嬉しくはないけど、まぁそう言っていたね」
 意地を張るように、まっすぐユージンを見つめて好きになると言ったのだ。今までよりもずっと。世界で一人だけ、ユージンだけを。
「でも、それももう関係ないことだな。彼女は幸せに暮らしているらしい。今のところは、決闘も申し込まなくて済みそうだ」
 最後、思わず笑いがにじんでしまった。
 リチャードはちゃんとアニーを大事にしているらしい。これ以上望むものもないだろう。
「決闘?」
 シャーリーが不思議そうに小首をかしげる。
「なんでもないよ。ただ、リチャードが彼女を泣かせることがあったら、決闘を申し込んでやるって決めてるんでね」
 そういうと、シャーリーは不思議そうな、言いたいことがあるような、怒ったような、なんとも言えない表情でユージンを見返した。
「お兄様は、本当にアニーたちの結婚を喜んでいらっしゃるの?」
「何を突然。冗談だろう?」
 喜んでないように見えるのかい?と言外に告げると、少し悲しそうな表情をされて、ますますユージンには何が何だか分からなくなる。
「私はまだ、恋というものをしたことがありません」
「うん?」
「でも、『愛情』にはいろんな形があるんだろうなというくらいは分かっているつもりです」
 何を言い出すんだろう。
 ユージンには、ただぼけっと見返すことしかできない。何が言いたいのかわからないから。
「リチャードのように好きな相手を諦めない愛情もあると思います。でも、―――」
 なぜだろうか。
 ふとユージンは思う。
 この先はあまり聞きたくないな、と。なぜかは知らないし、何を言い出すのかもわからないけれど、聞きたくないと思う。
「相手を想うからこそ、諦める愛情もあるのではないですか?」
 妹はこんなにしっかりと相手を見て話をする子だっただろうか。
 こんなにも真摯に語りかけられる子だったろうか。
 そんな妹の変化に、そんな場合じゃないと思いつつもユージンは喜んでしまう。
「まるで、僕がアニーを好きだったとでも言いたいように聞こえるけど」
「お兄様はとても優しい方です。あの子の想いを知っていて、それでも手放さずにいるなんてことはできなかったでしょう…?」
「そんなことは…」
 そんなことはない。
 あの結末のために動いたんだ、そんなことはないよ。
 そう思う。
「アニーとの生活を考えたことは?」
「―――……」
 ない、とは言えなかった。
 彼女はきっと考えたこともなかっただろうけど、現実として彼女との結婚生活を考えていたユージンには何度も想像することがあった。
 きっとリチャードと笑いあいながら、あのグレンディル伯爵家で過ごすのだろうと。
 彼女は侯爵家に移ると言っていたけれど、それはあまり想像できなかった。
 ともかく彼女は伯爵家にいて、ユージンはたまにふらっとあの屋敷へ遊びに行って、3人で笑い合って、ユージンだけ2人に見送られて帰る。
 パーティーには、アニーと二人で揃って出かけて、きっと彼女を屋敷へ送ってリチャードに渡して、ユージン一人で事務所へと戻ってくる。
 でも、そうだったとしても。
 たまにはアニーと二人だけで田舎にある侯爵家のマナーハウスへ出掛けて、ゆったりと過ごす。
 そこにはリチャードはいなくて、彼女が見ているのも笑いかけているのも、ユージンにだけだった。
 改めて想像していたことを思い出すと、アニーとふたりきりだと切り取った時間は、とんでもなく優しい時間に思えた。
「………」
 黙るしかなくなったユージンを見て、シャーリーはふいと視線を落とした。
「……愛情の形は、一つだけではないと思います」
 恋はしたことがないと言った妹なのに、静かにそれだけは言い切った。
「余計な波風を立てまいとしてそう言っていらっしゃるのか、本当に気付いていらっしゃらないのか知りませんが、認めてあげてもいい想いではないですか?」




 言いたいことだけ言うと、また手紙を読み返してきますと部屋を去っていった。
 どれだけあの手紙が嬉しかったのだろう。
 苦笑とともに見送って、冷めた紅茶に口をつけた。
「愛情は一つの形ではない、ね…」
 愛と言うならあっただろう。
 友情だって好意の一つだ。好意は突き詰めて考えれば愛だろう。
 それでもきっと、妹はそれとは違う意味で愛情だと言っていた。
 妹だって、アニーが今一番幸せだとはわかっているだろう。それを奪いたくはないだろうとも予想がつく。
 だとしても何か言いたくなるほどに、ユージンの態度が彼女を苛立たせていたのかもしれない。みすみす「執事」ごときに奪われて、それでいいのかと。
「ねぇ、シャーリー」
 ここにはいない妹に語りかける。
「愛情の形が一つではないのなら、やっぱり手放したこれは恋愛感情だったんだろうか…?」
 手放さないことが愛情だと思っていたけれど、もしかして違うのだろうか。
 手放すことも、他の男と幸せに暮らしていることを喜ぶ気持ちも、全部友情だからこそだと思っていたけれど、彼女をそういう意味で愛しく思うからこそなんだろうか。

―――愛情だったら、それはちょっと悔しいな。


 そう思いながら、ユージンは残りの紅茶を一息で飲み干した。




12月頭頃にアネットシリーズ最終巻が出た勢いで書いたんだと思います。
ユージンのあれは自分に言い聞かせていたんだと今でも思ってる。
掲載: 2011/01/21