「雪は降らない、ですね・・・」
二人で過ごす初めてのクリスマスは雪が舞っていたらいいのに。
そう思っても、そう上手く行くわけもない。
「葵さん、どこですか?」
階下でそう呼ぶ声がする。
コートに腕を通し、もう一度だけ恨みがましく窓の外を見てしまう。
むぎさんはきっと雪を楽しみにしていただろうに。
「今行きますよ、用意はできましたか?」
初めて一緒に過ごすクリスマス・イヴ。
「うわっ、寒い!」
「大丈夫ですか?」
大学生活にも慣れて友人から誘われもしただろうに、イヴだけじゃなく、クリスマス当日まで一緒にいるからと笑顔で言った恋人に声をかける。
「大丈夫、です。マフラー巻いててもダメですね」
「手袋もしてきた方がよかったかもしれませんね。そう言う私も忘れてしまいましたが」
お互い苦笑が浮かぶ。二人揃って忘れるなんて。
「じゃあ、こうしていましょうか」
「・・・・・・え」
「嫌でしたか?」
むぎさんの手を取る。
「・・・・いえ」
でもびっくりしました、と思わず足を止めてしまっている。
「出かけるときも、手は繋いだことなかったですね」
「腕とかならありましたけどね」
「順番が逆な気もしますけどね」
手は繋いだことないのに、腕は組んだことがあって。
クリスマスだなんて喜ぶ年でもないのに、こうしてむぎさんが隣にいてくれて、こうして手を繋いでいられるだけで、特別な日だと思えた。
何をするともなくウィンドウショッピングをしていると、むぎさんは可愛いものを見るたびに足が止まって、クリスマスソングが流れるたびに口ずさんでいた。
こんなクリスマスは何年ぶりだろう。
大学生・・・いや、高校時代が最後だったかもしれない。
大学で付き合っていた彼女とクリスマスを過ごした記憶がない代わりに、なぜか嵯峨沢教授や隆行と過ごしていた記憶がある。
大学時代は研究に没頭していられたのだと、改めてあの4年間の貴重さに感謝したくなる。卒業後の大学院も大切な時間であった事は確かでも、大学時代ほど充実していたかどうかは分からない。
「ごめんなさい、飽きました?」
不安そうに覗き込んだ彼女が予想以上に近くて思わずドキッとする。
「いえ、大丈夫ですよ。何か、欲しい物は見つかりましたか?」
「うーん、あったと言えばあったんですけど」
「じゃあそれにしましょうか?」
クリスマスなのだからプレゼントあげます、と言って譲らなかった彼女に、なら私からも贈らせて下さいねと言い含めて、今日の外出になったわけだが。
彼女自身、プレゼントに欲しい物は考えていなかったらしい。
もうかれこれ1時間近くショッピングモールを回っていた。
「・・・もう少し考えていいですか?」
「もちろんですよ」
安心したように笑う彼女の手を、もう一度強く握ってみる。
もしお互いの年齢がここまで離れていなかったら。
もしお互いの出会い方がこんな風でなかったら。
どうなっていたのだろう。
こんな風に、どこの高校生の過ごし方だと思わず自分を笑ってしまいたくなるようなことはしていないのだろうか。
大学時代の自分のクリスマスの過ごし方よりはよほど恋人らしい過ごし方をしているとは言え、ただ手を繋ぎながら、一緒にプレゼントを探しているなんて過ごし方で彼女は満足なのだろうか。
不安になりもするが、これ以上踏み込めない。
もっと年齢に差がなくて、自分自身の過去に暗いことがなければもっと彼女を思うままに愛せるのかもしれない。
それでも、それは有り得ないことだから。
今はまだ手を繋ぐこと、唇を触れさせることが精一杯で、それ以上触れることができない。
思わず、小さくため息が漏れ、天井を仰いでしまった。
いい一日になりそうだと思った先からこんなことばかり考えてしまって。
これ以上考えるはやめておこう。
むぎさんの笑顔をこんなにゆっくりと独占していられる時はないのだから。
「ごめんなさい」
食事を前にしゅんとうなだれる彼女に笑いかける
「気にしないで。また明日も一緒にいてくれるのでしょう?なら、明日はまた別の場所に行ってみましょうか」
「・・・はい。って言うか、あたし欲しいものたぶんないんですけど」
「そうなんですか?」
彼女ほどの年齢の女性なら、服だろうとアクセサリーだろうと、望む物は多いだろうに。
実際、そういう物を買うものだと思っていた。
「うーん、一哉くんたちにも驚かれたんですけど、やっぱり思いつかないなあって」
「御堂くん、か。懐かしい名前ですね」
何事もなければ一生話すこともなかったであろう人物だ。
「何してるんでしょうね、一哉くんたち」
「さあ、どうでしょう。彼も忙しい人のようですからね。今はまだたまにですが、ぽつぽつと経済関係の番組では彼の名前も聞きますし、顔も見ますよ」
ごく稀ではあるが、彼自身が出演している番組も出てきた。
経済新聞では月に何度かは御堂一哉自身の名前が出ているくらいだ。
「へえ!すごいですね」
「羽倉君、松川君の動向は分かりませんが、一宮君は先日のコンクールで入賞を果たしたとか」
「あ、それは手紙、来ましたよ」
「彼はあなたにとても懐いていたようですからね」
そう言うと、懐かれてたって言うか、からかわれてた感じですけどと複雑そうな顔をする。妖精には手を焼かされていたらしい。
「ふふっ、こうして御堂君たちの話をしながら食事というのも楽しいものだったんですね。最近は思い出しもしなかったし、昔のむぎさんは分かりやすいくらい警戒していましたからね」
「ええっ、そうでした、か?」
「それはもう。あれはごく個人的なことで、私自身どうして誘っているのか最初は戸惑っていましたし、あなたを愛していると自覚してからは、職権乱用かと心配してしまいました」
冗談のような口調で軽く言うと、笑って「あたしも何度目かからは楽しんでました」と言ってくれる。
決して幸せに出会ったとは言えなくとも、今がこの上もなく幸せで。
それだけで過去が清算される思いだった。
「・・・もう7時過ぎですね。出ましょうか」
「もうそんな時間ですか?」
「ええ。できれば、近くの公園へ行ってみませんか。きっと船がイルミネーションで綺麗ですよ」
寒いかもしれませんが、と付け加えてみるが、彼女には大した問題ではないようで笑顔で頷いてくれた。
さすがイヴの公園。
イルミネーションの綺麗さにつられてか、何組もの恋人同士がいた。
その誰もが幸せそうだ。
「むぎさん、ほら船が。やはり綺麗ですね」
「わあっ、写真でしか見たことなかったですけど、大きいですね。船体黒いのに、イルミネーションのせいで大きさがよく分かります。それに、ホント。綺麗です」
「昼間は見ていても面白くないのですが、夜は映えますね。向こう岸には遊園地ですか」
手摺りに身体を預けつつ、反対側の岸に目をやる。
何色もの光が刻々と色を変えている。
大きな観覧車が一際美しく光っている。
「きれいー・・・。うわあ、行きたくなっちゃいますね」
「行けますよ。繋がってますからね。少し歩くことにはなりますが、行ってみますか?」
「え、いいんですか?」
行ってみましょう!と元気よく歩き出す彼女に苦笑がこぼれる。
こんなに愛らしく、無邪気な彼女が選んだのが私なのか、と。
もっと相応しい男はいくらでもいただろうにと、決して彼女を手放せないであろう自分自身のことは棚に上げて、恨みがましく思う。
神も酷いことをするものだと。
―――そう思った瞬間に、辺りに響いたのは2本のヴァイオリンの音だった。
「・・・え、これ」
「知っていますか?」
ふとむぎさんが足を止めた。
ヴァイオリン二重奏は、いくつもあるベンチの一つの前で始まっていた。
アヴェ・マリア。
聖母マリアに、私たちにも祝福をと希う賛美歌だ。
「聞いたことあるような気はします」
「グノーのアヴェ・マリアですね。ソプラノ歌手が歌っているのを聴いたのではないですか。クリスマスの時期はよく流れますよね」
アメイジング・グレイスや聖しこの夜も同様に流れている。
弾いている二人は―――恋人同士だろうか。
あまり音楽に詳しくない人間が聞いても、レベルの知れる音。
プロだと言われても納得してしまうような音だった。
そんな二人が恋人同士で。
それは世間にはどれほど美しく、羨ましく映ることか。
二人の年齢の近さに勝手に恋人同士だと仮定して、少し羨ましく思ってしまう。
勝手に嫉妬されては二人が可哀想だと思ったとき、
「綺麗な音、って言ったらありきたりすぎですか」
むぎさんが、唐突にそう言った。
聞き惚れているように、じっと演奏者を見ている。
「ふふっ、いいんじゃないですか。なんの効果もない空の下でここまでの音に出会えるとは思っていませんでした」
天まで響く音色。
これが聖母マリアのために奏でられる音だと思うと、これ以上相応しい音はあるのかと思ってしまう。
「ずっと会えずにいた私たちへの聖母マリアからの祝福かとさえ思える響きですね」
「・・・神様じゃないんですか?」
「神、かもしれませんが、これはアヴェ・マリアですからね。聖マリアに祈りを捧げている曲だったはずですよ」
「へえ・・・賛美歌は全部神への祈りかと思ってました」
「それが多いでしょうけどね。・・・・・・・・・・でも、そうだな」
「?」
「神がくれた祝福のほうが私は嬉しい」
同じ祝福を受けられるのならば。
あなたの言っていた神に祝福されたい。
「あなたが信じる神は愛なのでしょう?」
神はいると思いますか?
では、その神はなんでしょうか。
もうずっと昔に交わした会話。
その問いに、あなたは迷わず愛だと答えましたね。
「なら、神がいいのです」
ふわり、と彼女を引き寄せる。
抱きしめることは無理でも、こうしていることは少しの間だけ許して欲しい。
いきなりのことに少し驚いたらしい彼女に、ふと笑いかけて、そのまま目を閉じる。
この美しい音色と、心癒されるような祈りの旋律が私たちの未来を祝福してくれればいいのに、と。
最後の一音が奏で終えられたとき。
自然と手を打っていた。
緊張したように周りを見回した演奏者の少女と、そんな少女を優しく見つめた青年は、明日の聖なる夜をどう過ごすのだろうか。
「すごい遠くまで見えますよ!」
約束の遊園地。
観覧車に乗り込むとすぐにはしゃいだように声が上がった。
「橋も夜に見ると綺麗なんですね」
うっとりと見つめる彼女が幸せそうだ。
「来てよかったですか?」
「はい、それに思っていたよりもずっと近かったです」
「15分くらいは歩いたんですけどね」
「なら、隣に葵さんがいてくれたから全然飽きなかったんですよ」
自然と零れたらしい言葉に、改めて彼女を愛していると思う。
「ありがとう――・・・」
「お礼言われることじゃないですよ。あたしはずっと葵さんの隣にいますから」
「―――本当ですか?」
「信じてないんですか?」
ひどいと頬を膨らませるむぎさん。
でも、彼女はその言葉の意味が分かっているのだろうか。
私はその言葉を、額面通りに受け取っていいのだろうか。
「むぎさん、目を閉じていただけますか?」
「え?」
「大丈夫、別に揺らそうとか考えてるわけじゃありません」
「葵さんがそんなことするとは思ってませんから」
そう言いながらも、別に何も思うところはないようで、すぐに目を閉じてくれる。
『ずっと葵さんの隣にいますから』
信じていいですか。
真に受けてしまってもいいのでしょうか。
「愛していますよ、むぎ―――」
左手の薬指にすっとリングを嵌める。
「えっ?」
驚いたように目を開けてしまった彼女が口を開く前に、唇を重ねる。
ただ触れるだけのものだけれど。
今度こそ彼女は絶句したようだった。
「受け取っていただけますか?」
「え、あ、ええっと」
何事か言おうとしても、言葉が出てこないらしくパクパクと動かすのみだ。
「・・・・・・・・・・はい」
結局、言えたのは酷くありきたりな、それでも私にとってみたらこれ以上ないほどの言葉だった。
10時を指したと同時に頂上に着いた観覧車。
そして、今日二度目のキスをした。
目を瞑る直前、目の端に捉えた白さは、観覧車を降りる頃には何なのか確かめられるだろうか。