「本当、お前さんは上手いよなぁ」
「は?」
春休み。
生徒の登校はまばらになってきたけど、音楽科生は関係なく登校している生徒が多い。
今日だって練習室が取れなくて仕方なく音楽準備室をこうして借りてるわけだし。
……その経緯は考えるのも嫌だけど。
「いきなりなんですか、金澤先生」
「いや、いつも日野から『衛藤くんはこれもさらっと弾いちゃうんですよ』とか『あんなに堂々と華のある演奏ができるってどんな気分なんだろう』とか、いやになるほど聞いてるが、実際に聞いてみるとこういう気分になるもんかと思ってな」
「…意味がわからないんだけ…ですけど」
言い直したのがわかったのか、先生がかすかに苦笑を浮かべる。
「日野が羨ましがるのがよくわかるってことだ。あいつは華もあるとは思うが、それよりも軽やかとか爽やかって言葉の方が合ってる気がするよ」
「ああ、それは俺も思う。あいつ自身を映してるって思うときは多いかも」
「一昨年になるのか。セレクション参加なんて言われた時は戸惑ってたみたいだが、お前さんって言ういい手本もいるし、月森って言う目標もいるし、日野も恵まれた環境で音楽の道を進めてるよな」
月森蓮。
俺より2学年上で、去年の今頃ウィーンへと留学してしまった人。
香穂子と同じヴァイオリン専攻で、音楽界のサラブレッドとまで謳われた存在だ。
あの人の音を聞けば、群を抜いた音楽性の高さを意識せざるを得ない。
信武さんとはまた違う方向性で、自分の音楽を突き進んでる人だと思う。
「今日だって、いつも世話になってるお前さんが困ってるって言うから日野も俺に連絡してきたんだろうし」
「…別に、そこまで学校で練習したいって言ったわけじゃないのに」
「はは、日野もたまには恩返ししたいんだよ。こんなところで悪いが、もう少し練習して行けや」
な、と言われてしまえば、それ以上ぐだぐだ言う方がかっこ悪い、そう分かってての言葉なのか?
今日は練習室が取れなくて、そのまま帰るところだった。
どうせ家でも練習はできるし。
それでも学校に来ようって思ったのは、…香穂子が今日は練習室でやるっていうからだし。
練習が始まってしまえば、それぞれ個室。アンサンブル練習や試験前にピアノ伴奏と合わせるのでもなければ、当然個室に閉じこもる。
だから、香穂子と会おうとしたって朝か昼か帰り際になってしまう。
さすがにそのためだけに練習場所もないのに学校にいるのは馬鹿らしいし、帰ろうかと思っていた時だった。
「衛藤くん、おはよう!」
走ってきたのか、少し息が上がってる。
「…香穂子?おはよ」
まさか会うと思ってなくて、一瞬ドキリとしたのが表情に出てなければいい。
……まぁ少し動揺したところで、あんたは絶対気付かないだろうけどな。
「今から練習?」
練習は9時からって言ってたよな。
9時ちょい前ってところだから、遅刻ギリギリでここまで走ったのかもしれない。
「うん。寝坊しちゃって…」
「あんたらしいね。もう少し時間に余裕持って行動しろって言われない?」
「言われるけど…寝坊はどうしたって…」
小さな声で弁解する姿は、とても高校3年生―――いや、もう4月からは星奏学院大学の1年か―――とは思えない。
「それはともかく!衛藤くんは?練習場所とれた?」
「いや、昨日のうちに予約しておけばよかったんだけど忘れてて。家帰ることにする」
家じゃなくても駅前の練習スタジオがあるはずだし。あそこはさすがに空いてるだろう。
―――香穂子に会えて、それなりに満足したし。
さすがにその言葉は飲み込んだ。
「え?それは時間がもったいないよ」
「って言っても、音楽室はオケ部が来てるし、今日は冷えるから外は無理だし」
3月末とはいえ、今日は数日ぶりに冷える。
我慢できなくはないだろうけど、手が悴んでいる中練習したって無意味だし。
「えー…じゃあ、ちょっと待って。……音楽準備室?」
「音楽準備室?」
「うん、あそこならいいんじゃないかな?」
そりゃ防音はされてるだろうし、誰にも邪魔はされないだろうけど。
「…あの先生がいるんじゃないの?」
「金澤先生?猫に会いに行ってなければいるんじゃないかな」
…やっぱり。
正直なとこ、会いたくない。
あの人自身が嫌いとかじゃないけど、……会いたいとはどうしたって思えない。
「私もあとで会いに行こうって思ってたし、ちょっと使わせてもらえるように頼んでくるよ」
「いや、だから、」
「先生も前に衛藤くんの演奏聞いてみたいって言ってたし!行ってみない?」
悪気なく首をかしげるのは可愛いと思う。
むやみやたらに可愛いく見える。それ狙ってるの?って聞きたくなるのをこらえなきゃなんないほど可愛いと思うよ。絶対言わないけど。
「――――行くよ…」
年上なら、少しは相手の感情察してくれ。
そして、香穂子が交渉してくれてあれよあれよと言う間にここが今日の練習場所になったんだけど。
こうして先生にまで練習していけと言われると、なかなか出ていけない。
それに、話しかけられさえしなければ、先生はずっとパソコンに向かって書類づくりだし、音の響きは練習室ほどではないけどそれなりにいいし、文句はあまりない部屋だった。
「ま、でも練習漬けもよくないわな。コーヒー淹れるから飲んで休憩しろ」
「はぁ…」
「ほれ、そこ座れ。日野もたまに朝早く登校すると練習室空いてないって言ってここに来るんだ。で、教師にコーヒーを入れさせる、と」
酷い生徒もいたもんだよな――――そう笑う。
―――声が弾んでるって、自分で分かって言ってんの?
香穂子から直接、先生に関して何か言われたことはないけど、バレてるからな?
この1年、ずっと香穂子―――あんたのこと見てたらそりゃ分るよ。
梁太郎さんだって桂一さんだって葵さんだって、ずっとあんたのこと見てるのに、全部無視してあんたが見てる先は先生だろ?
先生だって、一時期アメリカに行ってた時、唯一連絡取り合ってたのは香穂子だろ?
誰も知らないはずなのに、暁彦さん並みの速さで先生の帰国予定日知ったんじゃないのかって思うくらい早かったもんな、香穂子の情報。
直接連絡があったとしか思えないほど正確で早い情報だった。
これ以上ないってほどの笑顔で香穂子自身から報告されたんだから、いやになるくらいよく覚えてるよ。
「っと、もうそろそろ昼飯だし、あいつも来るかな」
「もうそんな時間?」
「ああ、今日は外に食いに行くつもりだが、お前さんはどうする?」
弁当は持ってきてないけど、購買は今日やってるんだっけ?
少し考えたとき、コンコンコンと軽やかにドアがノックされた。
「どうぞー」
「失礼します」
「おう、早かったな」
案の定、香穂子だった。
ヴァイオリンは持ってないから、練習室に置いてきたのか。
「頑張って仕上げまで午前中にやってきたんですよ?お昼久しぶりに食べに行くって言うから、ゆっくり時間とれるように」
「……そう何度も行ってるわけじゃないだろ」
困ったような、仕方ないと諦めるような口調で香穂子を諭すと、少し気にするように俺の方に視線を投げてきた。
衛藤がいるんだから気をつけろよ、とでも言いたいんだろうか?
「まぁそうですけど…。じゃあ行きますか?私、今日はイタリアン食べたいなーって思うんですけど」
「イタリアン?この辺だと…って、それより衛藤、お前はそれでいいのか?」
「俺は別にどこでも。っていうか、俺が付いて行っていいの?」
「どうせ一人奢るのも二人奢るのも変わらんさ。気にするな」
「あ、ひどい。ちゃんと自分の分は自分で払いますよ?」
香穂子が心外だとでも言うように抗議すると、
「お前は大人しく甘えておきなさい。大人がいるときは素直に奢ってもらうやつの方が可愛いぞ」
「う」
「お前さんは、可愛いもんな?」
「………ありがとうございます」
よろしい、なんて言って笑いながら香穂子の髪をくしゃとかき混ぜる。
もう見ていたくもない、そう思っても仕方ないだろ?
香穂子は卒業したって言っても31日までは学院の生徒であることに変わりない。
でも、この光景を見れば、4月1日からはこの「教師と生徒」って距離から絶対に踏み込むんだろうって分かる。
踏み込んだら、俺が邪魔する隙間なんてないだろうってことも。
何がいけなかった?
出逢った時期?
この年齢差?
そんなの関係無くて、とにかく俺自身の性格?
――――でも、答は分かってる気がする。
俺がいけないんじゃなくて、単に香穂子には金澤先生しかいない、ってたぶんそれだけだ。
他を考えるってことがありえないくらい単純に、この人がいいって香穂子がそう思ってるだけだ。
単純な分、絶対にひっくり返せないものがあるんだって、この二人に気付かされた。
………あんたがどうしても欲しいんだと願ったところで意味がないんだって、あんた自身に気付かされた。