寒い。
ウィーンの夜は、日本の寒さ以上で、うっかりするとすぐに風邪を引いてしまいそうになる。
本当にウィーンは寒い。コートにマフラー、手袋は必須だ。
自分でも手袋は持ってきたけれど、使うのは誕生日プレゼントにと香穂ちゃんから贈られてきた手袋で。
なんの変哲もない手袋なのに、妙に暖かく感じられる。
香穂ちゃんが、俺のためだけに選んでくれたと思うからだろうか。
俺に、そんなことを思われていると知ったら彼女はどう思うだろう。
笑って受け止めてくれるか、それとも――――――拒絶するか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・止めよう」
なんとなく、精神衛生上それ以上考えるのはよくない気がした。
今日もコンクールに向けてレッスンがあった。
最終審査。
世界中から応募があったコンクールで、それなりに参加者も多かったけれど、それも随分と絞られた。
第一審査でのミス以外、これと言ったミスはしなかった。でも、周りで残っている参加者は、今までほぼノーミス。
俺と違って舞台慣れしている参加者もそれなりにいる。
これで自信を保てるほうが不思議だと言うレベルだ。
初めてコンクールの怖さを知った。
今までの経験をお遊びだと言い切ってしまうことはできなくとも、今よりは随分気軽に参加していられるものばかりだった。
今回、今までと随分違う心境で臨んだコンクールだけれど、それでもやっぱり今までの意識は抜けなかったのか。
手にしたヴァイオリンは、いつも以上に重くて。
迫り来る最終審査の日が、とてつもなく怖かった―――。
「荒れてるなあ」
ウィーン滞在のために借りた部屋で、ふと窓の外を見ると雨が降り出しそうな曇り空だった。
風は台風のように轟音を立てて吹き荒れていた。
「・・・・・・レッスンまでに止まればいいけど」
明日もレッスンがある。
それまでに凪いでくれれば・・・。
一旦集中力が途切れると、すぐに練習は再開させられなかった。
仕方ない、とヴァイオリンを下ろし、隣の部屋――リビング――でお茶でも飲もうと諦めた。
こちらで見つけたセットを出してきて、茶葉から丁寧に紅茶を淹れる。
この時間が、妙にゆっくりと流れていて俺はとても好きだった。
漂ってくるお茶の薫りも、リラックスできる。
音楽から少しだけ離れたいと思うとき、こうして過ごすと癒される――――はずだった。
いくらゆったり過ごしても、緊張が取れない。
どうしたんだろう。
最終審査が近いことが原因だろうか。
「最終審査」。
それを思い出しただけで、緊張が高まったのを実感した。
やっぱり緊張してしまっているらしい・・・。
「情けないなあ・・・俺」
後輩には先輩面で「みんなも頑張ってね」なんて言いながら、自分はこの様だ。
みんなは充分頑張っている。頑張りすぎな人もいる。
それなのに俺は、最終審査という言葉にすら反応してしまって・・・。
机の上に置いたヴァイオリンを見れば、思い出すのは出国前にみんなと一緒に送り出してくれた香穂ちゃんの笑顔だった。
『先輩なら、世界の舞台だって楽しめます』
『結果は後から着いてきますよ』
『音楽は楽しむもの。そう教えてくれたのは先輩です』
『だから――――精一杯、楽しんできてください』
そう言って送り出してくれたのだった。
あの時は、コンクールがこんなに緊張するものだなんて思っていなくて、俺も笑って『行ってくる』なんて答えていたんだ。
『音楽は楽しむもの』――分かってるつもりなんだけど・・・
『楽しんできてください』――楽しめているだろうか、俺は・・・・・・
ただもう一度弾ければそれでいいと思った第一審査の結果発表。
それでも今、弾けるだけでは満足できないような気もしている。
結果が欲しい。
このコンクールで、俺は香穂ちゃんと今までとは違う向き合い方ができる気がしていた。
それはきっとこのコンクールで、結果を得られたら違う向き合い方ができるのだと思う。
音は本当の意味で比べることなんてできない。
それでも、優劣を付けることはこうしてできてしまうのだ。
それならば結果が―――――
「え―――?」
ふと、テーブルの隅に置いたケータイに着信が着ているのに気づいた。
しまった。
レッスンの最中は、バイブ機能も切っているんだった・・・。
どうやら、いつもならレッスンが終わったら解除するはずのマナーモードも、今日は解除しないで置いたらしい。
気づかなかった・・・。
「―――香、穂・・・・・・ちゃん?」
香穂ちゃんから、メールと電話、それぞれ1件ずつ入っていた。
「え、なんだろう・・・・・」
王崎先輩
こんばんは、日野香穂子です。
この時間、日本は朝なので少し変な気分です。
そちらはどうですか?寒くありませんか?
ちょっと心配でさっき電話してしまいました。
すみません、レッスンだったでしょうか?
(レッスンの時間が分からないので変なこと言ってしまっているかも・・・)
また連絡しますね。
今度、レッスンの時間教えてください。
電話する時はその時間を避けて、電話します。
今年のヨーロッパは寒いと聞きました。
気をつけてください。
それでは。
香穂ちゃんらしい文章で書かれたメールに、ふと笑ってしまう。
こんなに心配してくれる人がいるんだ。
そう思うと、なんとなく温かいような、くすぐったいような気分になる。
「あぁ、留守電もくれたんだ・・・」
ありがとう、そう思いながら再生した。
こんばんは、香穂子です。
変な時間に連絡しちゃいましたか?すみません。
この前のメールで、あまり調子がよくないって言っていたので、心配で掛けてしまいました。
大丈夫ですか?
ヴァイオリンのことだけじゃなくて、先輩自身も、大丈夫ですか?
私は分からないけど、大きなコンクールですごい緊張するんじゃないかなって思います。
それでも、思い出してください。
『音楽を楽しんで』――そう言ってくれたのは先輩です。
『音楽は傷つけない』――音楽は人を癒すと言って励ましてくれましたね。
『音楽は感情のある生き物だよ』――音楽は優劣を決める物じゃなくて、どれだけ曲を理解して、感情を寄り添わせられるかの問題だって教えてくれたのも先輩です。
思い出してくださいね。
私たち――私は先輩を信じています。
あ、長くなっちゃいましたね!ごめんなさい。
・・・それじゃあ、また連絡します。
私もみんなも、遠いけど日本で応援しています。
聞き終えたとき、今度は笑みではなくため息が漏れた。
「・・・・・・・うん、思い出した」
数分前まで、何を思っていたんだろう。
俺は本当に「結果」だけがほしかった?
そんなことない。
確かに、俺はここで香穂ちゃんと違う向き合い方ができるんじゃないかって思ってる。でも、それは「結果」を得て、得られる向き合い方じゃないんだ・・・。
ここで何ができるか。
ここでどれだけ自分が日本にいた時と変われるか。
それが問題なんだ。
「ありがとう、香穂ちゃん・・・」
ヴァイオリンに手をのばす。
思い出した。大丈夫。
ありきたりだけど大切なことを思い出させてもらった。
「音を楽しむから音楽なんだよね」
リリもそう思って、世界に音楽を広めようとしているんだ。
もう見えなくなってしまった友人を思い出す。
もう迷わない。
「・・・待っていて、香穂ちゃん」
最後、俺は君のために旋律を奏でるから。
君のために弾くのなら、音はどれだけ優しくなれるだろう。
今まで大勢の喜んでくれる人たちに聞かせるのとはもっと違う、新しい音が生まれるんじゃないかな。
一音目を奏でた瞬間目に入った窓の外の風は。
穏やかなそよ風に変わっていた。