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明日、

 どこに行こうか。
 何をしようか。
 何を話そうか。
 逢ったらやりたいことばかりで、何を最初にやりたいかなんて分からなくなっていた。
 でも。



「よく来たね」



 笑顔で出迎えてくれたその人を見た瞬間、最後に逢ってからそんなに経ってもいないのに、涙が溢れて抱きついていた。
「逢いたかった・・・」






 目の前でコーヒーに口をつけながらニコニコと笑うのは、このウィーンでの国際コンクールで優勝した王崎信武。
 大学を休学してこちらへ現在留学中だ。
 私をこちらに呼んでくれて、両親の説得までしてくれた。
 今は、ホテル近くのカフェにとりあえずと連れて来られた。
「今日は疲れたんじゃない? 大丈夫?」
「疲れてましたけど、先輩の顔を見たら吹っ飛びました」
「香穂ちゃん・・・」
 照れたように視線を逸らした後、少しぎこちなく笑いかけてくれた。
「俺がいきなり呼んじゃったから迷惑だったかなって心配してたけど、少しは気が楽になったよ」
「全然!メールでも言いましたけど、本当に先輩には感謝しているんです。呼んでいただかなかったらこちらに来る理由なんて見つけられないし・・・」
「じゃあ、留学する気は元々なかった?」
 当然のような問いに驚いた。
 留学? 私が、ウィーンに?
「月森くんもこっちに留学するんだよね。あれ、もう来てるのかな。だったら香穂ちゃんもありかなって思ってたけど」
「私はそこまでの才能はないです・・・」
 妖精に認められてここまで来たけど、私が世界に通用するなんてないと思う。
『世界が君の音を待っている――』
 コンクールのあとに月森くんに言われた言葉だ。
 お世辞だとは思わないけれど、本気に取れるほど自分自身を過信していない。
「俺は、君の音はもっと世界に響くんじゃないかって思ってる。香穂ちゃんの音はどこまでも優しく溶けていくって知ってる?」
「・・・・・・・・・?」
「そっか。弾いてると分からないのかな。自分が一番身近で聞くから、一番自分の音に敏感かと思ってたけど」
 ちょっと困ったように苦笑されてしまった。
 優しい音色と言えば、私の中では先輩以上の音はない。他の楽器で言ったらクラリネットの笙子ちゃんも、自分自身を写したようにひどく繊細で、暖かい音がする。クラリネットと言う楽器の特性とは別に。
加地くんもそう。ヴィオラの音が元々優しいだけじゃない。加地くんの人間性を表したように華やかで、笙子ちゃんとは別の繊細な音が流れ出てくる。
でも、先輩のヴァイオリンは私にとっては特別だった。
暖かく包み込まれる感覚になる、優しく語りかけられている気分になる、そんな音だ。
「俺の音、コンクールの頃から柔らかくなったとか、伸びやかだとか言われるんだ。それまでもそう言われてたけど、一層言われるようになった。どうしてだか分かる?」
 またゆっくりと微笑んで訊かれる。
「・・・何か理由があるんですか?」
 一層柔らかくなった。
 それは分かる。帰国の際に開かれたコンサートは、私が聴いた先輩の演奏の中でも一番と言っていいくらいに優しく会場を包み、温かい音だった。
 澄んだ音色も、心を震わせた。これが王崎信武の音色なのだと、その場にいた全員が息を飲んだはずだ。
「香穂ちゃんがいたから。香穂ちゃんが、俺をずっと支えてくれて、励ましてくれて、俺はその中で君に惹かれていったよ」
「!」
「俺は最終審査は君を想って弾いたんだ。これが終わったら君に逢えると思って、すごく楽しみだったし、今すぐ話したいって思ってた。でも、そう簡単に逢える距離じゃなかったから。せめて君に届くようにって、そう祈ってた。今、俺が評価されているのは、全部君のお陰だって思ってる」
 そこまで言い切ると、またコーヒーに口をつけて、照れ笑いのような苦笑いのような笑顔で言った。
「・・・思ってる分には恥かしくもなんともなかったけど、いざ本人目の前にして言うと恥かしいね」
 それは言われてるほうも同じです。
 そう言ってみようかとも思ったけどやめた。
 ただ、私も笑い返した。





 留学の話はうやむやになってしまったけれど、私一人で決められる話でもないのでそのまま私たちの会話からは消えていった。
 変わりに、どこを観光しようかとか、何をしたいかとか。
 そんな話題がずっと続いた。
 カフェから見える空は、夕暮れを過ぎてもう随分暗くなってきてしまっている。
「じゃあ、もうホテルに戻ろうか。送るよ」
「え、いいですよ、大丈夫です」
「うん、香穂ちゃんはしっかりしてるからこのままホテルに帰しても大丈夫だってことは分かってる」
 でも、と手を取られた。
「もう少しだけ、こうしていたいんだ」
 せっかく同じウィーンにいて、同じ空気を感じてる。
 それなのに別れるのは惜しいと思っているのは私だけじゃないって信じてもいいですか。
 聞きたかったその言葉は、先輩の手が答えだと思うことにした。



「この辺りって、大きな公園があるんですね」
 ホテルに向かう道すがら、大きな公園を突っ切ることになって、ふとそんな感想を漏らした。
「そうだね。俺のアパートもこの辺りだから、コンクール期間中も、こっちに戻ってきてからもよく弾いてたよ。今は夕方もいい時間だから誰も弾いてないけど、ヴァイオリン持って来てる人も、昼間はいるから」
 街のどこにいても音楽が響く街。
 街を歩くだけで、どこからともなく音が流れては溶けていく。
 そう言って先輩は、だから君に見せたかったと笑った。
「君が不安に思うのはよく分かる。自分の音が世界に届くなんて滅多にある機会じゃない。それが自分のもとに訪れるなんて、そこまで考えられる人は稀だから」
 繋ぐ手に少し力が込められて、またゆっくりと続く。
「でも、世界は君に開かれているって俺は思う。香穂ちゃんが、本当に興味がないなら、趣味でヴァイオリンを続けていくだけだっていいと思うよ。でもね。もし、君の音が世界に響くことを願ってやまない人たちがいるってことを思い出して」
「人たち?」
「うん、コンクールの参加者はみんな待ってる。金澤先生も、理事長もきっとそうだ。アンサンブルを聴いた人も、オケを聴いた人も。そして、誰よりも俺が待ってる」
 それまでゆっくりと歩いていた先輩が歩みを止めた。つられて私も止まる。
 向き合うようして、私に視線を合わせた先輩は夜の暗闇でも分かるくらい、真剣そのものだった。
「君が少しでも音楽を進んでみようって思うなら、ウィーンがいいと思う。日本で学べないなんて思わない。でも、俺がコンクール期間中ここにいて思ったのは、君が学ぶならこの場所がいいってことだった」
 コンクールに追われていたときも、私のことを気に留めてくれていた。
 あれだけの舞台だったのに、私のことまで。
「またこちらに来てからも、やっぱり思ったよ。香穂ちゃんが音楽を望むなら、ここでやっていくことも一つの選択肢だって」
 ウィーン。
 日本からの遠さはこの冬の先輩との距離でよく分かっているつもりだ。
 その日本から遠く離れた地で、私が音楽を――。
「・・・・・・ごめん、やっぱり強引過ぎたね」
「いえ、そんな。 ・・・音楽を続けようって気持ちはあるんです。音楽科へ転科しないかって話も出ています」
「やっぱりね」
 分かっていたかのように、驚きもせずふと笑った。
 でも、やっぱり少し寂しそうだった。
「・・・月森くんは、ずいぶん前からこの時期のウィーン留学を決めていたようだったけど、香穂ちゃんはいきなりなんて無理だったね」
 音楽科に転科するならなおさらだね、という。
 ウィーンの学校の始まりは9月。今から手続きをしても間に合う。それでも、音楽科に転科してしまったら、1年間は学院に足止めさせられるだろう。
 そうでなくてもあの理事長だ。
 これからも名のあるコンクールには出場するように言われそうだと、日本にいた頃、土浦くんと笑ったことがある。
「・・・・・・・・・・音楽科へは転科しません」
「え?」
「時期が少し遅すぎました。転科って話はすぐに断っちゃいました」
 たぶん、したほうがよかった。
 みんなに言われた。離れるのが寂しいと言ってくれた加地くんさえも、それが私のためだと。
「確かに大学は星奏学院大学の音楽科ヴァイオリン専攻って思ってたんです。両親には、それで話を通すつもりで・・・」
「そっか・・・」
「でも・・・・・・・・・・」
 留学を考えてみたくなったと、そう言ったらどう思われるだろう。
 喜んでくれるのか。
 あまりにも強引に勧めたからと、申し訳なく思われるか。
 さすがに留学を本気で考えたことなんてなかったから、まだ「してみたくなった」としか言えないけれど、気持ちが傾いたことは確かだ。
 本気で私が留学を望んだ時、両親がどう言うかも分からない。
「でも?」
「あ、いえ・・・」
 まだ確かなことが何ひとつないまま、簡単に言えることじゃない。
 言っていいことでもない。
 なんとなく言いづらそうにする私の空気を察したのか、先輩が思いっきり笑顔になる。
「ごめん、俺から振った話題だけど、やめよう。ここには4日間いられるんだよね。その間、またしばらく分かれることになる前に一杯思い出作ろう」
 ね、そう言って、繋いでいた手が私の肩に回されて、抱きしめられた。
「ごめんね。本当に。香穂ちゃんのためって口では言いながら、やっぱり俺のためだった。俺が君と一緒にいたいから。君の音楽のためって言うのも嘘じゃないよ。でも、一番の理由は俺が君と離れたくないって気持ちだった。それで君を困らせて、ダメだね俺」
「そんなことないです」
 私だって離れたくない。
 これで私が帰ってしまったら、次に逢えるのがいつかなんて分からない。
 最短でも、私の次の夏休みまでは確実に無理だ。その夏休みだって、音楽科受験のために余裕で潰れそうな気配が漂っている。今の予定だと。
「ありがとう・・・。やっぱり俺は君にフォローされっぱなしだね」
 抱きしめた手に力が込められて、少し息苦しいくらいだ。
「・・・怖かったんだ。俺が近くに居られない間に、他の人に君をさらわれたらどうしようって。だから、ホント無理なこと言っちゃって」
「私は先輩のことだけですよ、考えてるの」
 普段、あまり見ることのない先輩の弱気な姿に思わず笑いながら言ってみる。
「見くびらないで下さい。先輩が思っている以上に、私は先輩のこと大好きなんですから」
「・・・・・・・・うん、ありがとう」
 そこでようやく込められていた力が緩められて、
「明日は、何をしようか」
 日本から遠く離れた空の下。
 明日は何ができるだろう。
 何をしてみようか。
「ヴァイオリンが・・・いいな」
 どんなに離れても、変わらない。
 私がヴァイオリンを弾きたいと思うことも。
 先輩を想うことも。
「うん、弾こうね。何がいいかな・・・」
 そう言って考え始めた先輩が、ようやく思いついたように言った。
「優しき愛。どう?」
「弾いてみたいです」
 そして付け足す。
 愛の挨拶も、愛の喜びも、愛の悲しみも。
 愛を語る曲なら何でも弾いてみたい。弾ける気がした。
「それで、聴いてみたい曲もあります」
「何? 俺に弾ける曲なら、何でも弾いてあげるよ」
 そう言って優しく私に笑いかけ、手を繋ぎなおした先輩に、私も少し強く握り返しながら言ってみる。




「小舟にてがいい」




 私が聴いた先輩の音楽の中で、一番優しく私の中に響いた曲はこれだった。
 だから、もう一度聴いてみたいのだ。
 うん、弾こうねと頷いた先輩が、楽しげにまた歩き出した。
「明日、朝迎えに行くよ」
 毎朝、家まで迎えに行っていたみんなが羨ましかったんだと冗談っぽく付け足されて、思わず笑ってしまった。





 王崎ルートの香穂子は王崎追ってオーストリアに留学するだろうな、と。
 月森ルートと間違えていると思われそうな気がしないでもないですが、
 大丈夫ですよ!分かってますよー(笑)
掲載: 08/05/09