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おめでとうの言葉だけ

 やっぱり、ヴァイオリンの練習、少しだけしたいかなあ。
 でも、この時間から行っても音楽室なんて、取れるわけないし・・・。
 そう思って、ふと思い出した。
―――あの人がいつもいたのは、正門だったな。



 思い出したのは、昨年度卒業した柚木梓馬その人だった。
 いつも馬鹿にされていた気がする。横暴な物言いだったり、猫被っていて、周りを騙しているじゃないかと思ったことも否定しない。嫌なところを挙げていけば限がない。
 挙げていけば限がないけれど、同じだけ、柚木の好きなところも挙げていったら限がないのだ。
 何を言っていても、それが照れ隠しであることも分かる。
 本気で落ち込んでいれば、誰よりも身近にいて、ただ傍にいてくれたり、何だかんだで励ましてくれることもある。
 付き合う前からそうだった。
 優しくしてくれる人なら、他にもいた。柚木本人には言えないが、どちらが普段から優しいかと聞かれたら、間違いなく柚木の親友である火原の方が優しい。
 それでも、柚木が傍にいて、意地の悪い物言いでも、馬鹿にしたように笑われても、誰よりも真摯に私と私の音楽に向き合ってくれた彼がいい。


「・・・・・・何にしようかなあ・・・」
 先日、音楽科の先生に渡された練習曲集と、自分で買った小品集、月森くんから餞別にと貰った(なぜ私が餞別を貰うのかは疑問だけれど)音楽関連の書籍を並べる。
「あ」
 楽譜をパラパラとめくっていると、小品集の中にフォーレの子守歌を見つけた。
 一番好きな曲だとは言わないけれど、一番心に残っている曲ではある。
 私が柚木先輩に惹かれ始めていると気付き始めた頃に、ちょうど柚木先輩から弾くようにと言われた曲だったから。
 同曲対決だった。
 音楽科を抑えて第1セレクション2位、第2・第3セレクションを優勝した私と、第1セレクション優勝、第2・第3セレクション第2位だった柚木先輩との、実質的な総合優勝対決。結局、負けてしまったけれど。それでも、この曲がその後の私に大きな影響を与えたことは間違いない。
 曲そのもので言えば、技術的に難しい曲だっただけあって、それが弾けたことは私にとって大きな自信になった。
 それまでの努力とは比べられないほど大変だったけれど、練習すればするほど綺麗に音が出て、技術優先の曲の中に確かな流れが見出せて、感情を乗せることが楽しくなってきた。今の私の演奏スタイルは、たぶん、この曲で決まった気がする。
 どんな曲にも、必ず流れがあって、それに見合う音が必要だということ。
 先輩が敢えてこの曲を持ってきたことにどれだけの意味があるのか分からないけれど、もしかしたらそんな意味もあったのかもしれない。本意は聞いたことがないから分からないが。
「久し振りに子守歌でも弾こうかな・・・」
 久し振りに子守歌の楽譜を目の前にすると、コンクールでの感情が戻ってきた。
 コンクールのあと、コンサートにも何度か参加した。
 そこで、柚木先輩との絆が深まったのも確かだ。それでも、コンクール、特に第4セレクションは忘れられない。コンサートにどれだけ大きな想い出が詰まっていようと、あのセレクションがなかったら私は柚木先輩に出会うことはなく、第4セレクションがなかったら、私は未だにヴァイオリンにのめり込んでいたかも分からない。
 全ての偶然に、奇跡に感謝したくなる想い出が、確かにあのコンクールには詰まっていた。
 流れ出す優しい旋律に何人もの生徒が立ち止まり始めた。
 中には懐かしそうに目を細める人もいる。3年生だろうか。
 1・2年生は、物珍しそうに眺めてきていた。ヴァイオリンをこんなところで弾く普通科生ほど珍しいものはないだろう。
 柚木先輩がここでの練習を好んだ理由は、人目が多いことだ。
 それに付き合って私もここで練習し始めて、最初は人目が気になって仕方なかったけれど、次第に褒められるのが嬉しくなって、私自身、自分からここへ来て練習するようになったほどだ。人に褒められるのは嬉しい。楽しい。
――――それでも、この春から一番聴いてほしくて、一番褒めて欲しい人がいなくなってしまった。
 あの人でなければ褒めてくれても意味がないのに、とさえ思う想い出の曲。
 誰よりもこの曲は柚木先輩に聴いて欲しくて、柚木先輩のためだけに奏でる曲だと思う。
(会いたいですよ)
 最後に会ったのはつい3日ほど前。柚木先輩の引越しの関係であまり長くはいられなかったけれど、それでも会えた。
 大学自体は外部受験だったけれど実家からでも充分に通える距離の大学だった。
 それなのに何故引越しを?と訊いたら、呆れたのか、ため息を吐きながら「誰かさんとの二人だけの時間が欲しいと思ったのは俺だけだったらしいね」と言われた。
 そこまで嫌味を言うのがあの人らしいが、そこはもう少し言い方を・・・いや、私が悪いんだけど。とか思ってしまったのは許して欲しい。
(聴いて欲しい)
 いつも私の傍に居たのは必ず柚木先輩だった。
 行き詰っている時励ましてくれたのは柚木先輩だけではなかったけれど、一番心配して、息抜きに連れて行ってくれたのも、ヴァイオリンが壊れた時、心配して電話までくれたのも先輩だった。
 私がヴァイオリンと付き合い始めたことは、同時に柚木先輩との付き合いの始まりでもあった。
 出会ってもう1年になる。
 日々、ヴァイオリンへの思いが募っていくように、毎日柚木先輩への想いも膨らんでいく。
 全てが楽しいとは言わない。
 他の誰かだったら悩まなくていいことも、柚木先輩が相手だからこそ悩まなくてはいけないときがある。
 けれど、他の誰かだったら同じように楽しいと思えないことも、柚木先輩だからこそ楽しいと思えるときもある。
 そんな時が増えていく。
 会えないとき、綺麗なものを見たら最初の伝えたいのは誰でもなく柚木先輩だ。
 会えないとき、美しい音色に出会ったら、一緒に聴けたらよかったのにと思うのも先輩だ。
 普通の高校生の私が、ここまで人を想えると知って驚きっぱなしだ。
 こんな恋愛は漫画の中だけの話で、私は感情の起伏が少ない中でも愛しいと思える人を見つけて、幸せになると思っていたから。



 最後の一音を丁寧に弾ききると、周囲から大きな拍手が溢れた。
 周りに目を向けると、何人もの生徒が足を止め、聞き入ってくれていたのだ。
「え、あ、ありがとうございました!」
 急いで頭を下げると、尚一層拍手が大きくなる。
「日野さん、すごいよかった!」
「え?」
「正門に来たら、いきなりこんな素晴らしい演奏なんだもの。びっくりしたよ」
 目を向けた先には、今年からクラスが離れてしまった友人、加地がいた。
「加地くん!聞いてたの?」
「もちろん、日野さんのファンの僕だよ?こんな演奏、聞き逃せるはずないでしょ」
「・・・調子いいんだから」
「酷いなあ」
 あまり思ってないように笑うと、いそいそと自分のヴィオラを取り出した。
「ねえ、他の曲も弾いてみない?ヴァイオリン1本だけと、ヴァイオリン、ヴィオラの組み合わせでは、やっぱり違ってくるから」
「そうだね」
 それはコンサートでアンサンブルでよく分かった。
 全部で9曲を演奏したけれど、やっぱり弦楽器と管楽器の両方が出揃う曲は華やかで、演奏していて楽しかった。それは、華やかな中に確かな落ち着きがあるからだと思う。
 ヴィオラやチェロの低音が、高音域のヴァイオリンやフルート、トランペットなどをバランスよく落ち着かせてくれる。
「ふふっ、こんな風に日野さんと合わせるのも久し振りだね」
「そっか。確かに、コンサート以降、合わせてなかったね」
「何にしようか・・・ここで弾くなら、有名な曲でもいいんだけど・・・」
 ちょうど持ってきていたのか、加地は楽譜を幾つか出していた。
「何があるの?」
「うーん、色々あるけど・・・・・・ねえ、ヴィオラとヴァイオリンのためだけの曲って、弾いたことある?」
「二重奏曲ってこと?」
「うん」
「それはないなあ」
 アンサンブルの時に弦楽四重奏などは演奏したけれど、わざわざヴァイオリンとヴィオラだけの曲は見たことがない。きっとあるんだろうなくらいは思っていたが。
「じゃあ、これはどう?」
「え、『K.423』・・・ってことは、モーツァルト?」
 普通はOP(オーパス)で区別される楽曲は、モーツァルトの場合、K(ケッヘル)で区別される。
「うん、《ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲 第1番ト長調》。そのままなんだけどね。僕、これ結構好きなんだよね。ちょっとヴァイオリンが早いところもあるんだけど、どう?弾いてみる?」
「間違うかもしれないけど、それでもいい?長調の曲は好きなんだよね」
「そうなの?君も気に入ってくれると嬉しいな。もちろん、初見なんだし、間違ってもいいから、合わせてみようか」
 楽譜は全く読めないと思うほどではないけれど、やっぱり聞いたことがない曲はよく分からない。
 元々音楽をやっていた訳ではないから、そういう勘は1年やっているだけでは、まだ掴めるものではないらしい。
 それでも、弾いていくとヴィオラとの重なりで、綺麗なメロディが生まれる瞬間があって、そこが思ったように弾けると、隣で加地が笑うのが分かるし、私自身も楽しくなる。この瞬間のために、ヴァイオリンを弾いていると言ってもいいくらいだ。


 数分で第1楽章が終わる。
「ありがとう!さすがに最初だからずれたけど、それでも合う場所も幾つかあったね」
「うん、ヴィオラとの重なりがすごく綺麗な曲なんだね、これ」
 そんなことを言い合っていると、後ろから拍手が聞こえた。
「え?」
「柚木さん・・・なんでここに?」
「やあ、加地くん、久しぶり。香穂子も、楽しそうだね」
 嫌味のなほどの笑顔で加地に挨拶している。
「え、柚木先輩!?今日はどうしたんですか?」
「嫌だなあ、香穂子。一緒に帰ろうと思って迎えに来たのに。今日は始業式だって言うから、早めに来たんだよ」
「ああ、そういうことなら、返さないといけませんね」
 そう加地が言うと、また笑顔で、
「返す?香穂子のことは誰にも貸し出した覚えはないんだけれど・・・何の話だろう?」
「あはは、さすが柚木さん。すごい自信ですね」
「いやだなあ、加地君。そんなことないよ」
 笑顔なだけにやっぱり怖いのは私の気のせいだろうか。
 以前、同じような場面では「笑顔で話してるでしょ?僕たち」と言う加地の一言で納得してみたが、やっぱり怖い。
「日野さんは、柚木さんも迎えに来たことだし、帰る?」
「え、あ、うん、帰ろうかな」
「じゃあ、今のうちに渡しちゃうね。・・・はい、これどうぞ」
 手渡されたのは、さっき一緒に弾いた二重奏曲の楽譜だった。
「これは?」
 訊いたのは柚木先輩だ。
「さっき二人で演奏していた曲だよね?」
「ええ、まあ。もしかしたら気に入ってくれるかなって、ずっと渡したかったんですけど、さっき弾いたら気に言ってくれたようなので。進級祝いみたいなものです」
「進級祝い?」
「えー、私たち二人とも進級したのに?」
「何か理由がないと受け取ってくれないでしょう?日野さんは。ね、無理矢理だけど、プレゼントする理由、僕にくれない?」
 そう言われても、こんなプレゼントをもらえるなんて思っていなかったから、何も用意していない。
「私、何も用意してないし・・・」
「じゃあ、プレゼントする口実を僕にプレゼントして?」
「え?」
 満面の笑顔で、「それでいいでしょ?」などと言っている。
「・・・あとで、何か絶対にお返しするから。・・・・・今日は、これ有難く貰わせてもらうね」
「お返しなんて要らないんだけどなあ」
 貰ってくれただけでいいや、というと、相変わらず爽やかに去って行った。



「加地からのプレゼント、ねえ」
「・・・いや、あの、これは・・・」
 忘れてた。迂闊すぎるのもいい加減にしろ私と言いたくなるほど、迂闊だった。なんで、こんなに存在感溢れる人を忘れられるのか。
「いや、場の雰囲気に流されて・・・」
「流されるなよ」
 盛大にため息吐かれても・・・。思うが、口には出せない。どう考えても、自分の目の前でプレゼントを貰われたら、ただでさえ心の狭い柚木先輩が不満に思わないはずがなかった。
「・・・・・・でも、そうか。進級祝いか・・・」
「え?」
「おめでとう」
「はい?」
「おめでとう、って言ったの。無事に進級できてよかったじゃないか」
「・・・馬鹿にされたのは分かりました」
 そう言うと、くっと笑って髪を撫でられた。
「怒るな。進級祝いは用意し損ねたけど、言葉だけってのもいいんじゃないか?」
 俺からの言葉だしな。
 そう付け加えられる、その言葉こそが先輩らしすぎて、少し笑ってしまう。
「先輩からの言葉なら、大概、嬉しいものですよ」
「大概、なの?」
「別れるとか言われたら、その言葉のどこが嬉しいものになるのか分かりません」
 そう断言すると、なぜか驚かれた。
「・・・・・・別れたくないって少しは思ってくれるわけだ?」
「当たり前じゃないですか!」
 怒ったようにそう言えば、また少しだけ苦笑いされて、髪を撫でられた。



「進級おめでとう。次は、同じキャンパスを歩けることを祈ってる。その後は―――」



 そこで首が振られる。
「いや、とにかく。大学で待ってるよ」
「は―――って、ええ!」
 はいと言おうとして気付いた。
「先輩の通ってる大学の音楽科って・・・」
「うん、芸大並みに難しいね。学院音楽科への外部入学と同じくらい難しいんじゃないかな」
「ちょ・・・えっ」
 絶句する私に、嫌味なくらい綺麗な笑顔で付け足した。



「待ってるからな。来る、だろう?」



 来いと言われたら行くしかない。でも、
「頑張ります」
 精一杯の返しに、とりあえずは満足したように頷いた。





柚木でこれはないだろーと思いつつ、いつの間にやら柚木で書いていました。
香穂子は後で、しっかり祝われると思います。
大学の入学祝も、豪華にやってもらえそうだよね、とか思った。
掲載: 08/05/06