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お祝いのキス

 時間あるし、練習室行ってみようかな。
 今の時間に行けば・・・・ギリギリで取れるかもしれない。
「よしっ」
 ヴァイオリンケースを手に取ると、今年初の練習室へ向かった。


「香穂?」
「え、ああ。土浦くん」
「どうした? 練習室予約か?」
「うん・・・」
 と思って来たはいいけど、予約は一杯になっていた。
 コンクール期間中なら誰かしらが譲ってくれるなんてこともあったけれど、今は優先されるべきは音楽科だ。
「どうしたんだよ、そんな声出して。・・・ああ、予約埋まってるのか。なら、俺の家来るか?一応、防音室あるから」
「はい?」
 何か問題でも?と言いたげな顔の土浦くん。それから、何か思いついたように、
「あ、いや、ちゃんと母親もいるから」
「あは、別にそんな心配はしてないけどね」
「うっ・・・・」
「いきなりだったからビックリしただけだし」
「・・・・・・・・で?来るのか来ないのか」
 少し照れたように目線をそらせるのが可愛くて、つい吹き出した。
「何笑ってんだよ」
「ううん、何でもない! じゃあ、お邪魔します」
 楽しみだよ、と私は満面の笑みで返した。


「なんであんなところいたの?」
「うん?」
 帰り道。
 桜が舞っているこの通りが大好きだった。
 私は覚えていないけど、きっと土浦くんも小学生の頃はここを通学路にしていたのだろう。近くの公園も、きっと遊んでいたはず。地元の図書館では、夏休みの宿題を片付けに来ていたこともあるかもしれない。
 一緒にいた覚えはないし、相手もそうだ。
 それでも、会話の中に確かに繋がりがあったことが分かる。
 元々、綺麗に舞い散る桜の花びらが好きだったとはいえ、土浦くんとの繋がりもあったと知った時から、もっと愛しく思えるものになった。
「音楽準備室の前。別に予約してたわけじゃないんだよね?」
「・・・・・・・加地がお前が準備室行くの見たって言うから追いかけたんだろうが」
「それだけ?」
「・・・・・・・そうだが?」
 また照れたように顔をそらした土浦くんに笑ってしまう。それだけのために追って来てくれたと言うことが嬉しかった。
「あはは、加地くんもよく見てるなあ。私は気付かなかったのに」
「確かに。なんで他のクラスのお前のことまで知ってるんだ?」
 苦笑いを返すしかない。
 去年転校してきた当初から、日野さんの音が好きだとは言われていた。
 それは単純に嬉しかったし、戸惑いもあったけど、それよりも喜びが勝っていた。日野さん自身も好きだよと言われたこともあった。
 あまりにもあっけらかんと言われてしまって、告白だと感じたこともなかったが、もしかしたらそうだったのかもしれない。
 実際のところ確かめたことなんてないし、確かめるつもりもないが、もしそうなら随分酷いことをしてしまったのかもしれない。
「まあ、加地はいろんな意味でお前のこと気にしてたみたいだから、それが続いてるのかもしれないが」
「まさかー。もうクラスも別れたし、今日はたまたま見つけただけかもしれないでしょ?」
「だといいが」
「加地くんみたいな格好よくて優しい人が、本気で私なんか相手にするわけないと思うんだけど」
「それは、暗に俺が優しくないって言ってるのか?」
 今度は不貞腐れた表情になっていて、本当に感情の変化が激しくて分かりやすいと思う。
 普段はしっかりしているように見えても、たぶん、こういうところだけはまだ子どもっぽい。
「違うよ。それに、『格好よくて』の部分に反応しないのはどうして?」
「別に、自分の顔がいいと思ってるわけじゃない」
「そんなことないよ?充分、格好いいと思うけど。加地君とは方向性が違うだけで」
「意味が分からない」
 何の話をしてるんだ、と呆れられてしまった。
 確かに。最初の話から離れすぎだ。
 話が途切れてしまうと、話題が見つからない。
 いきなりテレビの話ってのもないし・・・・。
 ふと見た土浦くんの鞄から、見覚えのある雑誌の表紙が覗いていた。
「土浦くんって、サッカー好きだよね。サッカー部続けてるし」
 サッカーの雑誌だ。確か、お姉ちゃんが昨日彼氏から借りてきていたものと一緒のはずだ。
 言うと、ああこれか?と雑誌を指して笑った。
「まあ、大学に行ったらさすがにやらないけどな。見てるだけでも充分楽しいといえば楽しいし」
「あ、それは私も思う!前に連れて行ってもらった試合、楽しかったよ」
 そう言うと嬉しそうににこっと笑って、
「だろ?サッカーのルール自体は簡単だし、女子はやらないかもしれないが、男子なら体育の授業とかでやってるから、割とすぐできるし。女子にしたって、ルールを少し覚えれば、見てるだけでも割と面白いと思うぜ?音楽だってそうだろ?すぐに弾いたり吹いたりは無理だが、聴くだけなら誰でもできる」 
 一息ついて、語り始める。
「別に最初の感想なんて、この曲好きだって言うような簡単なのでいいし、音が綺麗だとかそんなのでいいと思うんだよ。極端に言えば、演奏者が美人だとか、格好いいとかでも」
「えー?」
「いいと思うぜ?それで、またその演奏家の演奏会に行って他の曲に触れてみる。もしかしたら、そこで自分の好きな曲に出会えるかもしれない。それが大勢の人に起こればいいと思ってる。クラシックに限ったことじゃない。ジャズでも、ロックでも、演歌もいいかもしれないよな」
 演歌に思わず笑ってしまう。
 土浦くんも少し笑う。
「お前の場合は、少し・・・・どころか、かなり特殊な例で音楽に関わり始めたが、それでも今音楽を好きだと思う気持ちは、俺たちの誰とも変わらない。結果論でいいと思うんだ」


 少し、分かるかもしれないと思った。
 音楽を好きになって欲しい。
 興味を持って欲しい。
 全てはそれからだ。
 今すぐクラシックを好きになれというのは無理だし、高尚なイメージがあるのも事実。私もそう思ってきた。
 いきなり1時間近い、解釈の難しい交響曲を聴かされたって辛いだけだろう。
 なら、簡単で有名な小品から聞いてみて欲しい。


「俺は、この一年で今まで以上に音楽に関わることについて考えさせられた気がする。特に、音楽科に関して。・・・・・・お前がいたからだよ、香穂」
「え?」
「元々、音楽は全ての人間に開かれているべきものだと思っていた。本格的に音楽の道を進む覚悟のある奴なんて、どれだけいると思う?ぬるま湯に浸っているように、ただ楽しみのためだけにやってる音楽は認められないと言いたげな音楽科の連中は、だから鼻についたんだ。音楽科が自分たちだけの特権のように楽器を奏でる音が腹立たしかった」
 今でこそ態度が軟化したとはいえ、確かに、最初はなぜそこまで音楽科と対立するのかと驚いた。・・・・・・・・まあ、今でも月森くんとは言い争っているけれど、きっとそれは最初の頃の諍いとは違うんだと思う。
 分かりづらいけれど、お互いがお互いの音楽性を認めた上で、重ならない部分があるからこそ言い合いにもなる。
「それが間違っているとは今も思ってはいないが、少し考え方は変わったかな。入り方も、それぞれの接し方もそれぞれだとは思うが、音楽科の連中の本気の姿勢を馬鹿にしてたことは間違っていたと思う。それぞれの接し方があるんだ。本気で取り組んでる奴らには、それなりのプライドがあるだろう。・・・・・・・・・そんな、簡単なことも気づけてなかった。―――――気付かせてくれたのは、香穂だったよ」
「―――――」



 風が、吹いた。



 見つめた先には、同じように見つめ返してくれて、微笑んでくれている土浦くんの姿。
 それから、手を取るように差し出される大きな手。
 ずっとこの手を取っていていいのだと。
 何故か、ふと信じられた。



 取った手が引かれた――――。




 暖かな温もりが全身を包み、一つのキスが落ちてきた。





「これからもよろしくな、香穂」




「こちらこそ」



 精一杯の恋。
 これから、何があるかなんて分からない。
 恋だけじゃない。
 音楽だってそう。
 何があるか、分からないことだらけだ。
 それでも、この確かな温もり、確かな手、確かな存在。
 信じていればいいと、そう思った。



 風が一つ。
 桜の花びらが舞う。
 光が煌く。



 未来を祝福されたようだった。





書き終わった後、自分自身でびっくりしました。
乙女すぎて、これ誰状態。
本当に申し訳なかったです・・・!
掲載: 08/05/06