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映画のチケット

 時間もあることだし、エントランスで時間でも潰してから帰ろうかな。
 あ、そう言えば、今日は――――って、違うんだ。
 以前なら今日――月曜日は王崎先輩に会える日だった。
 オケ部のOBだからと毎週3日間会えた。でも、今は違う。この秋から冬にかけて行われたコンクールで優勝して、つい最近帰国したと思ったら、雑誌や新聞、テレビの取材まであった。大きなコンクールだと聞いてはいたけれど、まさかここまでの騒ぎになるほど
のものとは、思っていなかった。先輩自身も驚いているようだった。

 CD発売の話が出ていて、ここのところその打ち合わせだったり、レッスンだったりで忙しい。夜、少しの間メールしたり、電話したりするのが精一杯だ。
 知らず知らず、ため息が漏れる。
 そんな自分に気付いて、叱咤する。今は先輩の大事な時なんだから、と。



 エントランス。
 いつ来ても、人に溢れている。ここばかりは、普通科も音楽科も関係なく生徒が揃っている。そして、この1年足らずでその割合はいや増したと思う。
 その様子を見て、ふと笑みが漏れる。
―――先輩がいたら、嬉しそうに笑うんだろうな。
 笑顔が目に浮かぶ。
 生徒がそこにいるだけなのに、そのことに大きな意味を感じているような。
 その様子が嬉しくて堪らないと言うような笑みを浮かべるに違いない。

 すぐに先輩の表情の変化を浮かべられる自分は、不思議でも何でもない。
 気付いた時には好きだった。
 気付いたのはいつだっただろう。
 コンクール開催の時?コンクールが終わってから?コンサートが始まってから?
 いつだったかなんてもう思い出せないけど、気付いたら好きで、いつも目が先輩を追っていたのは確かだ。
 先輩にも聞いてみたい。
 いつから私に会うことを楽しみにしてくれていましたか?
 いつから私を後輩と思わなくなりましたか?
―――いつから、好きだと思ってくれていましたか―――?
 話したいことが、いくらでも出てくる。
 最後に話してからまだ24時間も経ってない。
 それなのに、こんなにも求めてる。
「会いたいなあ・・・・・・・」
 会えないのは分かっているけれど。



「日野ちゃーん!」
「え、あ。火原先輩」
 エントランス脇にある購買部から大きな声がかかった。生徒のざわめきの中でも聞こえる、一際大きな声。
「こんにちは!日野ちゃん」
「こんにちは。お久し振りです」
「うん、久し振り!」
「今日は?大学はいいんですか?」
 火原先輩は予定通り、星奏学院系列の大学へ進んだ。ただ意外だったのは音楽科ではなく、教育学部に進んだことだ。
 コンサート期間中、火原先輩にとって辛いことが起こった。でも、それをバネにして、今まで興味ないからと言い続けていたコンクールにも出た。結果は聞いてないけれど、王崎先輩は「火原くんだったら、優勝も夢じゃないんじゃないかな」と嬉しそうに笑っていた。
「大学も今日は午前中なんだ。って言っても、俺の取ってた午後の講義が休講になっただけなんだけどね」
「休講?へえ、そうなんですか」
 私たちだったら絶対に自習になるのに、大学生はそうじゃないらしい。
 そう言えば、王崎先輩もそんな話をしてたときがあったかもしれない。
「で、オケ部の練習見に来たってわけ。今日は王崎先輩、来るの?」
「さあ・・・・。昨日話したときは何も言ってませんでした。ただ、最近はCDの話もあってレッスンが忙しいらしいので、来れないかも知れません」
「そっかー。それに、こっちに来る余裕があったら、日野ちゃんに会いたがるだろうしね」
「それはないですよ」
 苦笑しながら否定する。
 それは王崎先輩の今までの行動からして、ない気がする。
「そうかなー」
「って言うか、何の話ですか」
「あれ、何の話だろう?」
 あはは、と笑った火原先輩は少し真面目な顔をする。
「でも、きっと先輩、日野ちゃんに会いにいくんだと思うよ」
 本当に、そうだろうか―――。
 少し考えてみた。
 それでも出てくる答えは一緒だ。音楽が中心に回ってる気がする。
 それに、私はそのことに関してあまり不満がない。
 いつもその音は私に向かっていると、私のことを想って弾くんだよと言ってくれたことがあるから。
 ヴァイオリンを中心に動いているように見えても、きっと心では私を一番に置いてくれている。そう思えるから、寂しくもないし、辛くもない。
「日野ちゃん?」
「は、はいっ」
 物思いに耽りすぎた。
「ごめんね、立ち入ったこと言っちゃって」
「いえ!全然ですよ」
「そう?ならよかったー。考え込んじゃったようだから、失敗したなーって思っちゃったよ」
「気になさらないで下さい。ね?」
 少し元気付けるように笑うと、ありがとうと返される。
「そうだ。日野ちゃん、これから用事は?」
「いえ、特には。ただ、今日は帰ろうかなーと。ヴァイオリン、練習しないといけませんし」
「そっかー。うん、じゃあ、俺は部活見てくるから。じゃあね、気をつけて帰ってね!」
「はい、それじゃあ、失礼します」



 桜並木の間を通りながら、家に帰る道を辿る。
 いつもではないけれど、たまに王崎先輩と手を繋いで帰ったなあとか、別れ際に向けられる優しい表情が大好きだなあとか、日常のなんでもないことが思い出される。
 今日は一緒に帰れなかったけど、また近いうちに一緒に帰れる。
 それがいつも楽しみになっている。



 夜。
 もう夕食の時間だなという頃、突然ケータイが鳴った。
「王崎先輩?」
 ヘンデルのラルゴが鳴り響いている。王崎先輩からの着信はメールも電話もこの曲。一人だけ違うから分かりやすい。
「はい、もしもし?」
『香穂ちゃん?俺、王崎です』
「こんばんは、どうしたんですか?」
 毎晩電話したり、メールしたりはするけれど、この時間からは珍しい。いつも、もう少し遅いのに。何かあったのかと心配になる。
『いや―――何かあったわけじゃないんだけど・・・。今日から新年度だったんだなって思って』
「あ、そうですね。今日から私も最高学年ですよ。あんまり実感無いですけど」
 言うと、笑ってそんなことないのにとやんわり否定される。この声が大好きだ。
「でも、私、去年までずっと先輩たちに頼ってましたから、改めて自分が最高学年って思わないんですよ」
『それはね。いきなり実感はしないかもしれない。でも、今年は受験もあるし、否応なしに突きつけられそうかな?』
「そうですね・・・・。あ、でも、先輩も最後じゃないですか?進路とかも決めなくちゃいけないだろうし」
 そう言うと、少し苦笑に似た笑いが電話の向こうからこぼれた。
『うん、そうだね。一応、いくつかのオケから話が来てるし、ソロ活動でもやっていけるんじゃないかって言われているから、それはもう少し考えようかと思ってる。香穂ちゃんの将来にも関係あることだから、それは電話なんかじゃなく、直接会って話したいな』
「え、私?」
 先輩の進路に、なんで私が?
 意味がよく分からなくて、聞き返す。
『え、分からなかった・・・・・?』
 遠まわしに言いすぎたと呟いたように聞こえたのは、何だったのだろう。
『ごめんね、うん、気にしないで。いきなりすぎた。俺も何言ってるんだろう・・・・』
「はあ・・・・」
 やっぱり分からない。なんだろう。
『って、そうじゃなくてね。今日電話したのは、進級おめでとうってことなんだ』
「そうなんですか?ありがとうございます」
『本当は会いたかったんだけど、今までCDの打ち合わせが長引いてしまって。ごめん』
「気にしないで下さい!大変なのは分かってますし、先輩の音が世界に知られるせっかくの機会なんですよ。いつもみたいに、楽しんでいてくださいね」
 そう言うと、うんと優しい声が返ってくる。
『こうやって応援してくれる香穂ちゃんのためにも、頑張るよ』
 私のために頑張る。そう言ってくれる。
 それが嬉しい。いつも「誰か」のためを思って弾いている先輩が、私だけのためと言ってくれることが。
 特別だと言外に言われているようで。
『でもね。少し―――会いたいなって思うんだ』
「え?」
『俺の用事が立て込んでるせいで会えないって言うのに、俺がこんなこと言うのはおかしいし、間違ってるのも分かってるんだけど・・・。それでも、香穂ちゃんの顔を見て、一緒にいたいと思うんだ。今はウィーンと日本で隔てられてるわけじゃない、同じように日本にいるから』
 本当に?
 会いたいと思ってくれる?
「本当、ですか?」
『うん。本当。会いたいよ。今日も、進級のお祝いって名目つけて会いに行こうとしてたくらいだよ』
 そう言うと、電話の向こうで優しく微笑んだのが分かった。
「そんなのいらないですよ」
 名目なんかなくても会いたい。
 会いに来て欲しいとは言わない。
 それでも、会いに来て欲しいの一言がほしい。そうしたら行くのに。行けるのに。
 今はやっぱり先輩の邪魔は出来ないから。
 だから、会いに行ってもいいのだという一言が欲しい。
『ありがとう』
 最後に会ったのはいつだったか。
 声を聞いたのは昨日。
 でも、手を繋いだのは?
 顔をあわせたのは?
 いつも先輩の音が耳に響いているから寂しいとは思わない。音だけで先輩だと分かるほどに、聴いている。今だって、すぐに思い出せる。
 それでも、先輩の手の温もりは――――すぐには思い出せない。
 それでもいいと思っているけれど、少し辛いのかもしれない。
『ねえ、今度の日曜日空いてないかな』
「え?日曜ですか?」
『うん、映画のチケット。あるんだ。見に行かないかなって』
 少し間をおいて、続ける。
『顔が見たい、話したいことが一杯ある』




―――――なにより、一緒にいたいんだよ




 断る理由なんてどこにもなくて。
 今すぐにでも会いたいと思ってしまう私がいて。
 そしたら、やっぱり思う。




――――――会いたかったんです。本当は。





 王崎好きすぎて空回ったorz
 結局、どっちだったんだって言う。
 ほんわかした空気を出したかったはずなんですが・・・。
掲載: 08/05/06