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キャンディひと粒

 森の広場――行ってみようかな。
 人多いし、いつも練習してる場所だから、落ち着いて練習できるだろうし。
 あー、でも、今日は人あんまりいないかな。



 森の広場に着くと、案の定、人はまばらだった。音楽科・部活行った人以外は、ほとんどが帰宅してしまったんだろう。実際に、普段だったら溢れかえっている普通科生がいない。音楽科生は練習室か音楽室に行ったのかな。
「まあ・・・いいか」
 誰にも聴いてもらえないのは寂しいけれど、まだ聴いてもらえるレベルじゃないのも確かだ。数日前から練習を始めたのはドントのカプリースだ。全く基礎を練習しないまま商品のみだけを追ったコンクール。辛うじて総合入賞は果たしたものの、優勝の月森君に比べたら――いや、比べることすらおこがましい演奏だったことは、私自身が一番理解している。誰が褒めてくれたとしても、それは絶対に変わらない。



「日野?何、泣きそうな顔してるんだ?」
 後ろからいきなり頭を叩かれる。この声は、
「長柄先輩!?」
「そんなに驚くなって。と言うか、俺が驚く。何をそんなに悲愴な顔して」
 サッカーボール片手に立っていたのは、昨年度卒業生、長柄芹一先輩だった。
 去年のコンクールでは、何度も話を聞いてくれて、「俺は音楽分からないけど」と言いながらも、私の演奏でどう思ったか、どんな風に弾いてみたらいいか、一生懸命話してくれた人だ。
 コンクールが終わった後はまた疎遠になってしまったけれど、コンサートが始まってからは、毎回コンサートに来てくれたし、最終コンサートでは何人かの先輩と連名で花を贈ってくれたほどだ。
「いえ・・・・ちょっと、練習足りないなあと実感してたもので・・・」
「はあ!? お前、それ以上練習してどうするつもり?」
「どうするって・・・もう少し上手くなりたいなって。一応、これでも音楽科進学が目標なので」
「へえ」
 さも意外だと言う表情。この表情をされたことをあまりないので、少し驚いた。
 誰もが私の音楽科進学を疑わなかったのに。
「あ、悪い。いいと思うよ。火原は教育学部進んじまったけど、音楽科の友達のところちょくちょく顔出してるみたいだから、日野が入っても顔見せに行くんじゃないか?」
 火原も暇だよなと笑う先輩に釣られて、私も笑う。その後、まあ卒業してもサッカー部の面倒見てる俺も暇人だけどと付け足されて、なおさら笑ってしまった。
 だからボール持ってるのか。
「そっかー。俺が卒業したってことは、お前が3年ってことなんだよな。慣れないヴァイオリン持って必死に練習してた1年前が懐かしいな」
 そう言うと、座るか?と広場の奥、池の隣にあるベンチを指差した。
 はい、と頷いてケースを持つ。
 腰掛けると、本当に懐かしいなと先輩が話を続ける。
「俺、土浦と火原しか興味なくて、日野のことも普通科から出るヴァイオリンくらいの印象しかなかったけど、いざ話してみると、ヴァイオリン初心者だわ、そうじゃなくても危なっかしいわで、ハラハラし通しだったなあ」
「思い出さないで下さいよ!私自身も恥かしい過去なんですから・・・」
 信じられないような音を延々奏でていた。
 最初のうちは、聞くことすら嫌がられる演奏でも、次第に人が集まってくれるようになった。
 あ・・・・・・・・・
「でも、先輩は、どんな演奏でも聴いてくれましたよね」
「ん?そうだっけ?」
「覚えてないんですか?酷い!私は嬉しかったのに!」
「あーはいはいはい、覚えてる!覚えてますから!落ち着け」
 むうと頬を膨らませる私を面白そうに見てくる先輩が面白くない。
 私はずっと覚えてたのに。
 それをなかったことのようにからかわれた。そんなことで拗ねる子供っぽすぎて自分でも嫌気が差す。でも、止められない。先輩にだけは、すぐにそうだったなって言って欲しかったのに。
「日野〜?おい、本気でむくれてるのか?馬鹿だなあ」
「馬鹿ですけどね!」
 そう言うと、困ったような表情で覗き込んでくる。それを避けるように顔を背けてみれば、ご機嫌を取るように声が来る。
「分かった、分かったから。な?機嫌直せって」
「嫌ですー」
「・・・・った」
 え?何か・・・・・・?
「悪かったって。そんなに怒ると思わなかった。ケンカしに来たわけじゃないんだ」
 振り向くと、その瞬間、勝ったと言わんばかりに満面の笑顔になる先輩だ。
「日野は基本的に素直だから、こう言ったら絶対向いてくれると思った」
「またからかいましたー!?」
「からかってないって。あはは、お前は笑ってるほうが可愛いんだから、怒ってるなって」
「!」
「せっかく、素材はいいんだからさ。生かせよ?」
 驚きすぎて何を言っていいか分からない。
 慣れていれば否定の言葉を口にすることもできただろうし、笑顔で言葉を受け取ることもできただろう。でも、私はそんなこと言われたことない。
 言ってくれても、それは近所のオバサンの明らかな社交辞令くらいのものだ。
「日野?・・・・・・・・照れたのか?」
「先輩がいきなり意味分からないこと言うからですよ!」
 そう叫んで、足もとのヴァイオリンケースに手を伸ばす。
 これ以上話してたら、絶対大変なことになる。
 何がどう大変なことになるのか分からないけど!
 落ち着いて私。
 先輩だって、ただ単に励まそうとした・・・むしろ、ご機嫌取りのような意味だったはず。別に他意はないんだから。
 私だって先輩のことは普通に先輩だって思ってるだけじゃないの?そうだよね。うん、そのはず。
 勢いに任せて立ち上がって、ヴァイオリンを構える。
「ヴァイオリン、弾くの?」
 唐突にヴァイオリンを取り出した私に、少し面食らったように先輩が訊く。
「これ、次のレッスンまでの課題なんです。このくらいは弾けないと駄目だって言われてて」
 でも、基礎を勉強してないから難しいです。
 そう言ってみれば、またコンクール期間中を思い出す。
 あの時も、なぜか音楽は分からないと言っていた長柄先輩に何でも話していた。1年経った今もそれが変わっていない。
「こーら。また、落ち込んでるのか?落ち込む暇があったら、とにかく練習してみるって俺に言ったのはお前だろ?」
 私に合わせるように立ち上がった先輩は、言葉の厳しさとは裏腹に、優しい声音で繰り返した。
「何焦ってんだか知らないけど、悩むくらいなら練習するってコンクール期間中に言ったのは日野自身だろ?」
「・・・・・・・・・・はい」
 優しく諭されるように言われると、動揺が一気に引いて、冷静になってくる。
「俺は今もサッカーばっかりやってて、音楽のことよく分からないけど、焦ったっていいことはないってことだけは言える。それはサッカーもヴァイオリンも一緒だと思うし」
 こくん、と一つ頷く。それは分かってる。
 それでも、私のずっと前を歩いている人がいる。
 追いつきたいとどれだけ思って、どれだけ練習しても絶対に埋まらない差がある。
 自分の音を聞くたびに、私の前を歩むあの人が思い出されてしまうのだ。
「・・・・・・・・・・焦ってるのは、受験?それとも、月森のことか?」
「・・・・・・・・・たぶん、両方。でも、月森くんの方が強いかもしれません」
「それはさ、仕方ないと思うんだけど、俺の考えが甘い?」
 みんなに言われる。相手は気付いたらヴァイオリンを弾いてた人間で、私はつい1年前から始めたばかりなのだから、と。それで追いつこうと思うほうが間違っていると。
 私もそう思ったことがあった。追いつけるわけないのだから、自分のペースでやっていけばいいと思った。
「それでも・・・・・・・月森くんは、待ってるって言ったんです。次に会うときは舞台で。その時はライバルだって。そうあれるようになっていたい。そしたら、こんなところで―――立ち止まっていられないのに・・・・・」
「日野・・・・・」
 冷たいものが頬を伝ったのが分かった。
「泣くなって。ごめん、そんな、泣かせるつもりじゃなくて」
 戸惑った声がして、肩に手が置かれる。
 その温かさに安心してしまって、膝が折れた。
「ちょっ、おい、日野!?」
 感情が爆発するのが分かった。ただただ辛かった。
「思い通りに弾けない自分が嫌!どれだけ弾き続けても、絶対に越えられない壁を突きつけられるんです。もう、私、何もできない・・・っ、気がしっ・・・・てしまって・・くっ」
 もう涙が止まらなくなっていた。
 地面だということも気にせず、そのまま座り込んでしまう。
「・・・これだけ辛いならヴァイオリンを辞めてしまえばいいのにって思うんです・・・・っ。それでも・・・っ、くっ、辞められないほど・・・ひくっ、好きで・・・・・・気付くと手にしていて・・・」
「日野・・・・」
 私に合わせるように、先輩が隣に膝を着いたのが分かった。どうしても顔は上げられないから表情は分からないけど、すごく真剣に私を見ていることは分かる。
 こう言う時、絶対に茶化せない人だ。
 そう思った瞬間、ふと身体が傾いた。それでも、別に倒れるわけではなかった。
「大丈夫だよ、お前は頑張ってる。成長してる。いつも俺が聴いてたから。いつも隣に居た俺が保障するから」
 身体が傾いた先は、先輩の腕の中だった。
 そのとき、ようやく先輩に抱きしめられてることを自覚した。
「頼むから、嫌だとか、辞めたいとか言わないでくれ。辛いかもしれないけど、確かにお前の音に感動した奴がいるんだ。それは、日野の音であって、月森の音じゃない。お前の音に感動したんだよ」
 私の音―――?
「月森の完璧な演奏よりも、日野の優しい、包み込むような、素朴な音が好きなんだ。音の区別はつかないけど、お前の音だけは絶対に分かる。日野自身の音があるから。どこにいても日野だって分かる音がある。月森を考えすぎて潰れるお前を見るなんて、耐えられない」
 涙は止まったけれど、何を言われているのか、理解が追いつかない。
「大丈夫。日野の音が俺は好きだよ。いつでも俺の傍で弾いていて欲しい。俺は日野の音も――――」
 少し身体が離されて、少し無理矢理、顔を上げさせられる。
 私の大好きな―――そう。
 私の好きな先輩の照れたような笑顔があった。



「日野の音も、日野自身も、俺は好きだから」



 頬を伝っていた涙が、一気に止まるのが分かった。
 今、どんな顔をしているだろうとすら考えられない。
「落ち着いたか?」
「・・・・・・・・何言われたんだか、びっくりしすぎて、よく理解できません・・・」
「ばか」
 せっかく言ってやったのに、と軽く頭を叩かれた。
「先輩!?痛いです!」
「俺の心のほうが痛いわ!告白したと思ったら理解できないって何だそれ!」
「だ、だって・・・!」
 急すぎて、本当に分からなかった。
 先輩が?私を?
「泣いてるやつ相手に告白もどうかなって思わなくもなかったけど、今のタイミングしかないだろ?」
「普段の会話の中じゃ駄目なんですか!?」
「普段の会話だったら、何事もなく過ぎて行き過ぎて、どこに告白のタイミングなんて落ちてんだよ」
 その通り。ごもっとも。どこにもそんなタイミングはないですね・・・。
「返事はいいから。まだ、保留ってことで。どうせ今答え聞かせてもらっても、断られるのはわかってる。お前が俺を恋愛対象として見てないってことは分かってるから」
 そんなことない、と言おうとしても、言えなかった。
 私が何かを言うのを止めるかのように言葉か続く。
「もう少しして、お前が泣いてなくて、ちゃんと前を向けるようになった時に、答え、聞かせてくれるか?」
 今の私には、これが私を思いやっての言葉なのか、先輩自身が本当に今答えを望んでいないからこその言葉なのかが分からないけれど。
 でも、答えは決まっている気がする。
 さっき、先輩の笑顔を見て感じた心がきっと答えだ。私から先輩への。
「了解しました」
 涙を拭って、少し笑いながらそう言うと、先輩も吹き出して「なんだそれ」と返される。
「じゃあ、落ち着いたところで。どうする?帰るか?帰るなら送るけど」
「・・・・・・・・・・ヴァイオリン、弾きたいかな」
「え?」
「練習じゃなくて。ただ、弾きたいなって。月森くんのこととかは、あとでゆっくり考えます。今は、ただ―――先輩のために弾きたいなって」
「俺?」
 面食らったような先輩に少しだけ笑って、ヴァイオリンを構える。
 セレナーデ。
 弾く場所も、時間もずれているけど、相手を想って弾く曲に違いはない。
 きっと先輩は、セレナーデの意味は知らないかもしれない。
 もしかしたら、この曲がセレナーデだということも。
 それでも、ふと盗み見た先輩の表情が、穏やかだから。
 伝えたいことだけは、伝わっているのだろうか。



「ほら」
 弾き終わった途端、投げられたのは小さな硬い物だった。
 なんだろう。
 どうでしたか今の演奏、と聴きたかったけれど、投げられ、今私の手の中にあるものの方が気になった。
「キャンディ。考えたらさ、今日、始業式だったんだろ?進級おめでとう。それ、お祝いな」
 今手元にあったのはそれだけだったんだと気まずそうに付け足された。
「今度、キャンディなんかじゃなくて、ちゃんとしたの買ってやるから。・・・・それと、」
 これ以上ないってくらい、とびきり優しくて嬉しそうな笑顔。




「大好きだよ、香穂子」





月森のときとは逆に長いな・・・!
長柄に興味の欠片もない方には、申し訳なかったです。
でも、私は楽しかった(笑)
掲載: 08/05/06