―――行っても、いいだろうか。
入ると「お前さんか」といつも苦笑気味に迎えてくれる音楽教師を思い出す。
あと一年の我慢だ。
それは分かっている。
それでも、この春休みの間、会えたのは先生が補習担当だったときや、他の先生が補習担当だった時にすれ違ったことが数回だけ。
連絡だって、絶対の必要がなければしてはいけないと言う、他の生徒と同じ条件だ。
だからこそ、私にはそれが物足りなくて。
それが寂しくて。
付き合ってなんてないけど、お互いがお互いを好きだってことだけ知っている。中途半端すぎて、どうしていいか分からない。
と、延々悩みながら来た在準備室で、現在絶賛留守番中。
ノックしようとした瞬間に、職員会議の招集アナウンスが入って、先生が面倒そうに出て行った。
入って待っていろと言われたから、待ってはいるけど・・・・。
かれこれ30分は待っていて、いい加減飽きてきた。
今度貸して欲しいと言っていた楽譜でも探そう、と立ち上がる。
ここにはピアノ譜はもちろんのこと、ヴァイオリン譜、フルート譜。他にもパート譜がきちんと揃っている・・・・・・・・らしい。
先生が片づけをしないから、正直、本当に揃っているのかは分からない。
何だかんだで、貸し出しはちゃんとやっているらしいから、一応あるのだとは思うけれど。
探すのはヴァイオリン譜とピアノ譜。
ヴァイオリンは当然として、副科でピアノも取らなくてはならない。
それを知った時、つい土浦くんに「ピアノ科はいいなあ」と言ったら怒られた。正確には怒ってはいなかった。苦笑いを浮かべながら、簡単じゃないと言われたのだ。
ピアノだからと言って何が簡単なわけでもない。
やらなければいけないことは、ピアノもヴァイオリンも、他の楽器だって全て一緒だ。
そんなことを思い出したら、独りでに、ため息が漏れる。
「どうした?」
「はいっ!?」
「なにが『はい?』だ。ため息なんかついて」
いきなり後ろに立っていたのは、この部屋の主、金澤紘人その人だった。
「ちょ、え、なんでいるんですか?」
「ここは仮にも俺の職場だ」
「いや、そういうことでなく」
質問に律儀に返されてしまった。
そう言うことではなく・・・
「いつ、ここに戻ってきたんですか?」
「今。楽譜整理してくれてるのかーと思ったらいきなりため息だもんなあ。いきなりどうしたかと思って、な」
少しは、心配してくれたと思っていいんだろうか。
たぶん、いや絶対にこの言葉は教師としての言葉なのだと思う。きっとこの人は、私が卒業するまで教師としての姿勢を崩してくれることはないんだと思う。
それでも、教師としての言葉の中に、『私』だからこそ掛けてくれる言葉があるといいと思ってしまう。
「大丈夫です。自己嫌悪に少しだけ陥ってただけです」
そう言って笑ってみせると、一層心配そうな顔をされてしまった。
「自己嫌悪?お前さんが?」
「失礼な」
「あ、いや、悪い悪い。珍しいこともあるもんだなーと思ってな」
「酷くないですか、それ」
「いつも他人の気持ち推し量ってるお前さんが珍しいなと思っただけだろう?」
「反省しない私が珍しく反省したとか思ったんじゃないですか?本心は」
「卑屈になるなって。な? で?どうしたよ」
少し笑ってから、一気に真面目な表情になる。
それを見ると、いつも、教師なんだなあと思う。
「・・・・・・・・・・新しいことを始めようとして、何も分からなくて、人を傷つけたかもしれないって話です」
「何だそれは」
「・・・・・・・・・・ピアノを、始めたんです。そのとき、土浦くんに『ピアノはヴァイオリンよりは楽だよね』なんて、最低なことを言ってしまいました」
「土浦はなんて?」
「簡単なわけないだろ?って笑いながら言ってました。そのあとすぐ謝りはしたんです。どう考えたって、ピアノばかりじゃないけど、全ての楽器が簡単なわけないです。日々の努力が必要なものばかりなのに・・・・・・・・」
それを、本心から出た言葉じゃないとしても、あの言葉は最低すぎた。
「まあ・・・・その言葉はあれだが、土浦が気にしてなくて、お前さんがそれだけ反省してるなら、いいんじゃないのか?」
「そう、でしょうか」
「そうそう。最初は何も分からないんだから。人によっては、初心者の言葉だからって許さない奴もいるだろうが、土浦だからな。お前が本気で言ったわけじゃないのも分かってるだろうし、お前じゃなくても、初心者の言葉ならそのくらいは許すやつなんじゃないのか?」
一応、頷く。
でも、先生の言葉をそのまま受け取ってはいけないのも分かっている。
言っていいこと、悪いことはある。私が言ったのは、悪いほうのことだ。
「そんな風に、反省するのはいいことだが、その所為で最初の一歩を怖がるようになったら、人間駄目になるからな。まあ、なんでもとりあえずはやってみろってことだよ」
「はあ・・・」
先生に笑って請け負われると、そんな気がしてきてしまう。
「あは、ありがとうございます。少しだけ、気が楽になったかもしれません」
「それは何より。じゃあ、教師らしく、今年の目標でも聞いてみるか。今年、ピアノ始めたんだろ?他には?やらないのか?」
思いっきり、頭を振る。
そんなことしている余裕はない。
「無茶言わないで下さい!大学は音楽科を目指してるんですよ?他の楽器までやってられません!」
ピアノだって、本気で始めたら難しいってことがよく分かった。
右手と左手がここまで違う動きをすると、頭の中が混乱してしまう。
しかも、音符はヴァイオリンと違う。いや、音符はもちろん一緒だけれど、ずれている。そのせいで、少し読みにくい。
ヴァイオリン、ピアノ、声楽、楽典・・・・・やることはそれだけじゃない。まだまだある。いくら附属だとは言え、普通科からの入学は音楽科生よりも厳しい。
それなのに他の楽器?無理に決まっている。
「おいおい、そんな無茶、言うわけないだろ? 俺が言ってるのは、音楽以外」
「え?例えば?」
「例えば?そうだな・・・・・英会話とか、ボランティアとか・・・・・・料理とか?」
「お料理かあ・・・・・やってみようかなあ」
お母さんの手伝いと、ヴァレンタインくらいしかやらないけど(そして今年の2月のヴァレンタインは惨敗した)、たまにやった料理はそれなりに楽しかったような気がする。
「やってみると割りと楽しいぞ。別に何でもいい。やってみるといいんじゃないか?月森じゃないんだ。音楽だけがこの世の楽しみって訳じゃないことくらい、分かるだろ?」
いきなり月森くんが引き合いに出されて、うっかり笑ってしまう。
さすがに、月森くんだってそこまで極端に生きてるわけじゃないだろうに。
「そこまで極端ですか?」
「思わないか?そこまで音楽だけで生きられるのも、あいつだからだろうし、才能だろう。だからこそ、あそこまでの弾き手になったことは、分かりきってるしな」
「そうですね・・・・」
憧れてやまず、音楽を続ける上で一番追いかけたい相手は、今は遠くウィーンにいる。
いつかは留学するだろうと思っていたし、実際にしてしまった。
「ま、あいつのことは置いておくとして。お前さんだな、日野。 音楽以外にも世の中は娯楽に溢れてる。ヴァイオリンに向き合ってばかりで見えてくるものよりも、他の物に目を向けて見えてくる音楽もあるんじゃないのか?」
「そうですか?」
よく分からない。
月森くんは、いつも音楽に向き合っていたように思う。月森くんとの会話に、音楽以外のものはほとんどなかったとすら思える。二人で出かけたこともあった。それでも、話したことは結局音楽に行き着いてしまった。
イルカの話から音楽に行き着いたと友達に言ったら「どうしてそうなるの」と言われたけど、私たちにしてみれば当然の流れだったような気もする。
たぶん、また同じように出かけたら、同じような会話をしてしまう気がする。
出会って1年しても、私と月森くんの会話は変わらない。そしてこれからも変わらないだろう。
「おい、ぼーっとして。大丈夫か?」
「え、あ、はい?」
「疲れてるのか?」
「ちょっと月森くんのこと思い出してて。それに、先生の言う通り、疲れたかもしれません。最近、やること多いのに時間は少なくて、少し焦ってるから」
そう言うと、よし、といきなり私の髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜた。
「先生!?」
「疲れたなら、息抜きでもするか。今日、これから時間あるか?」
「あるって言えばありますね」
やることは多い。やらなくてはいけないこと。1日だって気は抜けない。
それでも、先生の言葉が気になった。どこかに連れて行ってくれる?いや、まさか・・・。
「俺の買出しに付き合うように。教師命令」
「はい?」
「本屋。付き合え」
そう言うと、すぐに白衣を脱いで、ジャケットを着込む。
そして、行くぞと言われれば着いて行くしかなかった。
「すぐに戻るけど、適当に本でもみていていいぞ?」
「はあ」
見ていていいと言われても、突然何なのかという話だ。
本屋に来たはいいけど、なんだろう。予約してた音楽雑誌でもあるんだろうか。
買う気はなかったけれど、ふと音楽雑誌に手を伸ばす。
1年前の自分は、きっとこんな雑誌手に取らなかった。
漫画かファッション雑誌、たまにクロスワードとかそんなパズル関係。そればかりだったのに、今はそっちを手に取るほうが珍しい。手に取るのは音楽雑誌だ。
有名な現代作曲家が今月の表紙だった。
たしか、先月はヴァイオリニストだった気がする。
「変わったな・・・・」
小さい声で呟くと、なおさら実感した。
変わった。1年前と今では、何もかもが大きく違う。
ヴァイオリンを手にしている。
興味の対象が変わった。
将来の目標が見えた。
人間関係が変わった。
―――――好きな人が、できた。
そして、辛いけれど、やっぱりどこかで幸せだと思える日々がある。
不安なことが多すぎて、先生を信じ続けられないと挫けそうになるときもある。
それでも、顔を見るたび、声を聞くたび。どうしたって好きだと知るから。
だから、何だって頑張るのだ。
少しでも先生のいた世界、先生が目指している世界に私も近づきたい。
そして、先生とは関係なく、私自身が音楽ともっと付き合ってみたい。
雑誌ひとつでも、ここまで変わったことが見えてくる。
実際は、もっと変わったところもあるかもしれない。今はわからないけれど、いつかもっと見えてくるだろう。
そっと雑誌を戻して、今度は先生を探した。
本当にすぐ、先生は戻ってきた。
「待たせたか?」
「私も雑誌読んでましたし、10分も経ってませんよ?」
そうかと笑うと、手にしていた本屋の袋に入った雑誌と思われるものを私に差し出した。
「・・・・・これは?」
「これから新しいことを始めてみようとする頑張り屋の生徒にプレゼントだ。 開けてみろ」
「・・・・・・・・・・『初めての料理―お弁当編―』ですか」
「そう。お前さん、弁当母親が作ってるんだろ?自分で作れ、そのくらい」
「え、無理無理無理!難しすぎます!」
今年のヴァレンタインの惨敗振りを覚えてないのだろうか。
「期待してるからな?」
「え、何を・・・・・・?」
「お世話になってる教師に、一度くらい弁当作ってきてもいいんじゃないのか?」
そう言ってから、少し躊躇うように口にする。
「待ってるよ、本当に」
待ってるよ。
ああもう本当に。
そんなこと言われたら。
「頑張るしかないじゃないですか」
お世話になってる教師。
本当は違う言葉を言いたかったんじゃないですか。
そう訊きたかった言葉は、来年。
卒業したらいくらでも訊けるから。
今は胸に仕舞っておこう。