×
とっておきの景色

 ヴァイオリンの練習―――かなあ。
 そう思ってヴァイオリンケースと鞄に手を伸ばすと、半開きになっていた鞄から私にしては珍しく借りた400ページを越えるような厚い本があった。
「あ・・・返却日が今日なんだっけ・・・」
 すっかり忘れていた。朝はしっかり覚えていて、朝一番で返却に行こうと思っていたのに。
「まずこっちに寄ってからか」
 図書館経由で行っても、返すだけならそのまま練習室に行けるし。
 あ、でも、加地君にこのまえ薦められた本があったんだっけ。借りられるなら、それも借りていこうかなあ。
「香穂さーん、いる?」
「加地君?」
 ドアのところで教室を見回す加地くんの姿が見えた。
「あ、いたいた。お早う――って時間じゃないけどね」
 あははと爽やかに笑う。今年から教室が変わってしまったというのに、全く寂しくならないんだろうなと思っていたら、本当にそうなった。
「こんにちは。加地君のクラスも終わったの?」
「あー・・・・まあ、終わったかな・・・?」
「?」
 首を傾げると、とにかく、と私の手を取った。
「この後どうするの?ヴァイオリンの練習?帰る?」
「ヴァイオリンの練習もそうなんだけど、その前に図書館行って本返そうかなって。あと、前に加地君が薦めてくれた本があったでしょう?」
 少し考え込んだ素振りをした後、ああと思い至ったようだ。
「『山羊の歌』?」
「いや・・・ミステリー小説じゃなかったかな・・・」
 山羊の歌が何なのかよく分からないけれど、きっと加地君のことだから、詩集か何かだろうとは思う。家に帰ったら調べてみよう。
「あれ?ミステリー?僕が薦めたんなら、中原中也あたりだと思うんだけど・・・それ、本当に僕が薦めた?」
「・・・・・・・・」
 どうだっただろう。たぶん、きっと・・・加地君?
「タイトルは?」
「えー・・・モ、モグル何とか」
「・・・・・・・・・・ごめん、僕には分からないな・・・」
 確かに数千万と世界にはミステリーと言われている小説の類があるのに、それを全て知っていたらそれはそれで驚きだ。
 場所は覚えているから、タイトルが曖昧でも探せるかと思っていたけれど、ここまで破滅的に覚えていないと探し出せるか不安になってきた。
「まあ、いいや。時間あるんでしょ?僕もあるから、一緒にゆっくり探そうか」
「うん!」
 加地君との時間はいつもこんな感じだ。
 音楽だけに囚われなくて、他にも目を向けるものはあると教えてくれているような、そんな時間が流れる。
 だからと言って音楽が関係ない時間ばかりではなくて、デートはもっぱら加地君の気に入ってる弦楽四重奏団の演奏を聴きに行くとか、オケの定演を聴きに行くことが多い。
 そうでない時は、街を一緒にぶらついたり、夏は花火大会に行ってみようと気の早い話をしたこともあった。
 春はみんなでお花見に行きたいね、夏はやっぱり海でしょう、秋は近くでいいから紅葉狩りに行こう、冬は泊りがけでスキーもいいかもしれないよ。
 そんな話が普通にできる。
 私も加地君も、きっと相手の前にいる時、一番の笑顔が出ているような気がする。そうなるほど、相手に心を許しているんだと改めて気づく瞬間がある。
「香穂さんは、よく本読むの?あまり見かけてなかったんだけど、それにしては随分分厚い本読んでるよね?」
 歩きながら私の手元に視線を落とした。
 私も釣られて本の表紙を見る。
「うーん、極端に読まないわけじゃないけど、こんな本は滅多に読まないかな。文庫本とか漫画は読むんだけどね」
「へえ、じゃあこれはなんで?」
「図書館で菜美に『これ、私の好きな写真家の自伝なの!写真もかなり載ってるから分厚いけど、一度読んでみるといいよ』って言われて。そのままの勢いで、借りることになっちゃった」
「天羽さんらしい」
 また爽やかに笑うと、貸してと本をめくり始めた。
「ふぅん?・・・自伝とかって教科書に載ってるの以外読まないけど、写真が多いんだね。写真家だからかな。他のもそうなのか分からないな」
「写真家だからじゃないかな。私もほとんど読まないけど。っていうか、自分のことをこれだけ語るってすごいよね」
「そうだね、さすがにこれはすごいよね」
 苦笑気味に、またパラパラとページをめくってから、ありがとうと返してきた。
「やっぱり僕は小説とか詩の方が合ってるみたい。あまり人の人生見たくないし、押し付けられてもね」
 そう言うと、またニコッと笑う。
「僕、他人の価値観を押し付けられるのって嫌いなんだ。それに、何かを読むなら、できるだけ綺麗な文章を読みたいと思わない?」
 それは分かる。
 あまりにもえげつないものは、たとえフィクションであってもノンフィクションであっても、目を背けたくなる。
「それは分かる、かな」
「うん、だからね、詩が好きなんだと思うんだ。そんな大仰に飾り立てる必要があるのかなって思うようなことでも、どこまでも美化していく。たとえば、そうだなあ、葉が一枚落ちたとするでしょう?普通に考えたら、それは当たり前のこと。だけど、それだけに留まらない。そこで思考を停止させないで、それを擬人化して感傷的になってみたり、その『落ちる』と言う現象が何かを隠喩しているように書いたり。そういうのが僕には面白いんだ」
「へえ」
 詩にそんなに興味を持ったことがないから、どうしてここまで好きになれるのか本当の意味で理解することはできないけれど、加地君がどこまでも楽しそうに話す姿が好きで、そのまま話の続きを聴く。
「でね、いきなり話が変わっちゃうけど、音楽にも言えることだと思うんだよね」
「?」
「いや、そんなにマジメな話じゃないんだけどね。音楽って正確に弾くだけじゃ駄目じゃない?技術あってこその音であることは間違いないし、そこに何か言うつもりはないよ?ぱっと見、音そのものよりも目に見える動きの方を重要視する人もいるしね。それでも、音の連なりの意味を考えたときに、最後まで考えつくされた音だけが人を本当の意味で感動させられると思うんだ。楽想記号を見て、正確に理解したって言うなら一音一音が何故そこに配されてるかも考えるべきだと思うんだよ。そう言う思考を続けるっていう作業が詩を書いたり、読んだりすることに似てる気がするんだ」
「ああ、そうかも、な」
「うぐっ」
「土浦くん!?」
 笑顔で締めくくった加地君の笑顔が、後ろから締め上げた土浦くんのせいで歪む。
「ちょ、土浦、ギブギブ!」
「お前、またサボりやがって!いくら日野のクラスが早く終わったようだからって、まだ担任話してるのに出て行くな」
 ああ・・・・・・・やっぱり抜けてきていたのか・・・。
 加地君らしいと言えばそう言えなくもない行動に、思わず苦笑が漏れる。
「で、居なくなったと思ったら、日野相手に勝手なこと並べ立ててたのか。今のお前には、それ以上にやることあるんじゃないのか?」
「やること?」
 心底不思議そうに、力は緩めてもまだ羽交い絞めは解かない土浦くんを首を少し回して訊いた。
「おい、まさか本当に分からないのか?」
「分からない。何、担任が怒ってるの?」
 それはかなりまずいのでは。
「ばか、それもあるが、クラスの女子が掃除しろって騒いでるんだよ。いくら今日の帰りが早くても、掃除はあるんだ」
 そう言って土浦くんが加地君を睨みつけると、ようやく思い至ったと言う表情だ。
「・・・・・・・・・ああ、忘れてた。ごめん、香穂さん。先に行っててもらえる?僕もあとから追いかけるから。じゃあ」
 今来た廊下を駆け抜けていく。
「あーあ、廊下走ったら危ないだろうに」
「ねえ・・・」
「まあ、どっかの誰かと違って、前見て走ってはいるだろうがな?」
 面白そうに私を見ながら言ってくる。
「ちょっと、それ、1年も前の話でしょう?」
 私たちの記憶にちゃんと残る形で顔を合わせたのは、去年のコンクールに私の参加が決定した日だった。たまたまよそ見をしていたら、土浦くんにぶつかってしまって怒られたのだ。
「はは、悪い。今でも、よそ見しながら歩いてる奴見ると、どうしても日野のこと思い出しちまうんだよな・・・・・・・って悪い、なんか変なこと言ったな・・・彼氏持ちのヤツに」
「?いや、別に何も変なことは言ってないよね?」
「・・・・・・・・・・ならいいが」
 なぜか、ため息吐かれた。
「で、お前たちは練習か?練習室だよな、こっち方面」
「練習室の前に、図書館。本返して、本を借りてこようと思って」
 そう言うと、俺も行こうかなと言い出した。
「いいよな?」
「もちろん」



「さすがに今日は生徒少ないな・・・」
「そうなの?普段来ないから分からないけど・・・」
 確かに少ない。
 ただでさえ図書館では声を落とすのに、人が少ないからなおさら声を小さくしてしまう。声が聞こえづらい。
「で、日野は何借りる気なんだ?」
「ええっと、前に加地君が薦めてくれたミステリーで」
「え、何だって?」
 聞こえづらかったのか、少し顔が寄せられる。
「加地君がね、前薦めてくれたミステリー小説があるはずなんだけど、この棚辺りに」
 土浦くんは、加地がミステリー?とでも思っていそうな顔で、棚を見た。
「タイトルは?」
「ええっと、モグル街のなんとか?」
「もしかして、ポーのモルグ街の殺人じゃないか?潜ってどうするんだよ」
「あ、それ。よく知ってるね」
「・・・・・・それを薦めたのは俺だろうが・・・」
「え」
 そう言われてみれば、そんな気がしなくもない。
 いや、むしろ、誰が薦めてくれたかはよく覚えてなかったのが本当で、加地君しかいないと思っていた。
「ほら、これだろう?」
 借りられてはいなかったようで、取ってくれた。
「借りる前に、軽く読んでみたらどうだ?合わなかったらすぐに返していけばいいさ」
 それもそうかと思って、頷く。
「ちょうど窓際開いてるし、座ろうぜ」
 そう言うと、本当に適当そうに文庫本を1冊手にとってさっさと窓際の席に移動してしまった。



「あれ?寝ちゃってるの・・・?」
「加地。遅かったな」
 加地が急いできたのがよく分かるくらい慌てた様子で、香穂子と土浦の席に寄った。
 土浦は目の前で机に突っ伏す香穂子を少し呆れたように見ながらも笑う。
「こいつ、ちゃんと眠ってるのかよ?本読み始めた瞬間、寝始めたぜ?」
「うーん、無理しないでねとは言ってるんだけど、ヴァイオリンの練習に力入れちゃうと、どうしても遅くなるみたい」
「ふうん?」
 それから、ずっと香穂子を見ていた加地が不意に土浦を半眼で睨みながら顔を近づけた。
「あのさ、このジャケット、どう見ても土浦のだよね?」
「え、いや・・・」
 寝ている香穂子の肩にかかった、男子のジャケット。しかも、土浦はジャケットを着ていない。どう見ても土浦の物だ。
「だから、日野が風邪ひいたらお前も心配するだろ?」
「・・・・・・・いいけどね」
 どう見てもいいわけなさそうな雰囲気だが。
 土浦がそう思っていると、加地がすぐに香穂子の隣に回って、自分のジャケットをかける。
「はい、気遣いありがとう」
 目が笑っていない。
「あ、ああ・・・」
 そうして、また加地が香穂子に視線を落とす。
 どれくらい経ったろう。何分も経ったような気がする。
 不意に加地からため息が漏れた。
「どうした?」
「いや・・・今はね、この場所がプレゼントかなって」
「・・・?何の話だ?」
 ごそごそとポケットを探ると、土浦の前に小さな包みを差し出した。
「これ、なんだか分かる?」
「包みに包んであるんだから分かるわけないだろ」
「指輪」
「へえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう1回聞いてもいいか?」
「安物だけどね。この前、露店の前通ったら香穂さんが欲しそうにしてたから。買ってきておいたんだけど、こんなものよりも、今はきっと今はここでゆっくり休む時間の方が大切なんだろうなって思ったんだ」
 つと香穂子に目を向けて、小さく微笑む。
「知ってた?ここ、僕がいつも本を読んでる場所なんだ。窓際なんだけど、そこに木があるから日差しが直接入らなくて読みやすいんだ。それに、見てよ」
 窓をのぞくと、学院の正門辺りが一望できる。生徒たちがそれぞれ帰っていくのが分かる。
「ここだと、朝早く来れば生徒たちの朝の笑顔が見れるし、夕方はそれぞれの足取りで帰っていくのが分かるんだ。大勢の人間が見れて、一人じゃないことが確認できる。香穂さんがいない時の僕って、友達に囲まれてても、やっぱりどこかで独りな気がするんだ。特に音楽なんてやってるとね。どうしたって独りの時間が増えるじゃない」
「まあな」
「だから、ここが好き。香穂さんの隣が一番だけど、その次を探したらここ。香穂さんが起きたら教えてあげようかな」
 窓からまた香穂子に視線を移す加地。釣られる土浦。
 僕が言うのもなんだけど、と前置きしてから、香穂子に少しだけ顔を近づけた加地がまた微笑んだ。
「香穂さん、進級おめでとう。また1年、新しい日々が始まるね」
 これからも宜しくね、と言う加地の隣で土浦も少しだけ目を細める。

―――おめでとう。





前半と後半で視点を変えたので、読み辛かったかもしれないですね。すみません。
これは、地日←土の関係性に萌えたんだったと思います。
そんな勢いで書いたものの残骸です。
掲載: 08/05/06