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この白い雪と

 もうあの頃には戻れないんだね―――。



 卒業式を明後日に控えた帰りの車の中で、いきなり柚木先輩が今晩迎えに来るからと、そう言った。
 何のことか分からなかったけど、とにかく言われた時間に玄関に出れば、微かに雪が舞う中、柚木先輩が少しだけ寂しそうに笑いながら立っていた。そして「遅いよ」と言って強引に車の中に私を引き入れたのだった。
 どこに行くのか訊いても無視され、なぜ呼び出したのか訊いてもやはり無視されるだけだった。ただ、なぜ哀しそうなのか――そう訊いた時だけ、少しだけ微笑んだ。



「ここって・・・」
「俺たちの教室だね」
 連れてこられたのは学院だった。
 門が少しだけ開いていて、当然のように私の腕を引いて校舎の中に入っていく。そして、着いた先は先輩の教室だった。
 電気も点けずに入っていく。
「今晩はやっぱり冷えるな・・・大丈夫か?」
「え、はい、大丈夫、です」
「なに、緊張してるの?俺と二人っきりで」
「してません!!」
 大声で反論すると、いつもの意地の悪い顔で笑って、そのまま窓に近づいた。
 窓の外?
「何かあるんですか?」
「・・・夜の街並みを見下ろしたことはある?」
「いえ・・・」
「そう。―――雪・・・か」
 今度は、独り言のように呟いた。
「俺は、一度だけあるよ、夜の街を見たことが。もちろん、ここではないけどね。綺麗だった。近くで見たらただ光っているだけで何の変哲もない光なのに、遠くから見るとここまで美しく輝くのものなのかと思った」
「・・・・・・?」
 高台にあるこの学院から見下ろす街は、どこまでも光が続いている。
 遊園地の観覧車、ホテルの明かり、船の電飾、道を走る車のライト。
 ありとあらゆる光が溢れている。
「それを見たときね、一緒に見たいと思う人が一人だけいたよ」
「え?」
 一緒に見たいと思った人?
 誰ですかと口を開いたとき、
「しっ」
 先輩が私の手首を掴んで、しゃがんだ。
 コツ、コツ。警備員の足音だろうか。
「すぐに行くさ。少し大人しくしているんだよ」
 コクコクコクッと首を振ると、面白いものでも見たかのように笑われた。
 そうこうしているうちに、警備員が近づいてきた。
「っかしーな・・・。人の話し声がした気が・・・」
 息を潜める。
 きっと見つかったら、こってり絞られるに違いない。私はまだしも、ずっと優等生を続けてきた先輩は、絶対に見つかってはいけないはず。
 早く行って――。
 そう願っていると、ふと手に温かいものが触れた。
 手元を見れば、それは先輩の手で。
顔を上げれば、いつもの意地の悪い笑みなんかじゃなく、ただ穏やかに微笑む笑顔で。
いつ警備員に見つかるかも分からない状況なのに、安心して笑みが漏れた。



 先輩が好きだった。
 いつも一緒にいられればと思っていた。
 あの人の隣にいたいと願っていた。




―――――でも、叶わなかった。




 あの雪の夜。
 私は先輩にそう伝えていればよかった?
 好きだと、一緒にいたいと、隣にいさせて欲しいと。
 そうしたら、私はあの人の傍にいられた?



 あの雪の夜から2日。
 卒業式が無事に執り行われた。
いつもと変わらない様子で私を家まで送った先輩は――そのまま連絡が取れなくなった。
火原先輩は、電話もメールも出てくれるよと言う。
でも、私が連絡すれば一切が無視される。
どうしても一つだけ訊きたかった。
あの晩はうやむやにされた、一緒に夜景を見たかった相手。
私の勘違い? ただ私が自意識過剰なだけ? その相手が私だったらいいのにと思うのは迷惑?
何度も何度も、メールも電話もした。
直接、自宅に連絡したこともあった。
すべて無視されるか断られるかなのに、メールも電話もアドレスは変更されないし、着信拒否にもされない。
私の存在が疎ましかったなら、とことん突き放してくれればいいのに。
それをせずに中途半端にする理由は?



 理由が思いつかなくて、苦しくて。
 結局、電話もメールも止めてしまった。
 それに、あの夜、好きだと告げなくて良かったと思うようにした。
 好きだと告げていたら、2日早く関係が壊れていたかもしれない。
 夜景の相手は誰かと訊かなかったからこそ、あれは私だったんじゃないかと勝手に思っていられる。
 だから、これでよかったんだ。





―――泣くな、私。











雪の降る夜。
5年前のあの日も、雪が降っていたんだなと思い出した。
大学の卒業と同時に一族から任された会社の一つからの帰り、ふと歩きたくなって車を先に帰らせた。
香穂子を連れて学院に忍び込んだ日から、俺の世界が回らなくなった。
雪の季節になるたびに、あのときの想いがループする。
あの晩、告げていれば良かったんだろうか。
お前が傍にいれば、俺は何も要らないんだと。
お前だけが大切で、それ以外のものに意味はないんだと。
そう告げたら、香穂子はどう返しただろう。
でも、告げて、もし頷かれたらどうすればよかった?
香穂子には溢れんばかりの音楽への才能がある。
そのことはこのコンクールで証明されて、誰の目にも明らかなものとなった。出逢いが魔法のヴァイオリンだって関係ない。才能は本物だったのだから。
世界に響く音があるのに、俺といたら彼女までが音楽の道を断たれてしまうかもしれない。
柚木の家は、そういう家だ。
どうしても踏み出せなかった。彼女の音を聴けなくなるなんて――。



―――――――・・・



 街を白く染め上げる雪を緩やかに運ぶ風が微かに、
「香穂子・・・・・・・・?」
 彼女の声を連れてきた気がした。
 思わず振り返って、辺りを見回す。
「いるわけないだろう・・・・・・」
 いるわけない。
 彼女と俺とは、5年前の卒業式の日に終わったのだから。



 俺は何度、自分に言い聞かせればいい?
 俺自身が選んだことで、彼女の幸せに繋がることだと。
 何度も何度も言い聞かせた。
 間違っていない。
 俺も彼女も、ここで別れた方が互いのためだ。
 そして、今も必死に言い聞かせる。
 彼女の幸せは、俺じゃなく音楽と共にある。これでよかった。


 でも、どうしても――今彼女がここにいたら、何かが変わってくれると思ってしまうんだ―――。





 こんな想いもいつかは消える。
 今じゃない、遠い未来、きっと穏やかに緩やかになかったことになっていく。
 でも、あと何回5年前の夜を思い出して言い聞かせれば消えてくれる?





 降り続ける雪は止む気配はなくて、街に静かに降り積もる。











 どうしても消えないんだ、お前が。
―――俺の中から。





緋色の欠片FDのED曲を聴いてたら、なんとなく。
歌詞そのままと言う気がしないでもない。いいのか、これ。
柚木の悲恋は、もういらないかな!(笑)
掲載: 08/05/06