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たったの2週間

 分かってる。
 たったの2週間だ。2週間経ったら、また一緒に大学に行って、先輩のトランペットを聴いて、私がヴァイオリンを奏でて、いつしか私達の音は重なってる。
 そんな日常が戻ってくる。
 ねえ、先輩。たった2週間、その間がとてもとても苦しく感じるのは、私だけなんでしょうか?








 火原先輩の教育実習期間が始まったのは、つい5日前。
 月曜日から始まった実習期間は、折り返しまで来た。いつもなら大学のオケ部の練習に私も付き合って大学に行くけど、実習期間中は部活に出る余裕もないらしい。
 実習生は授業をみるのが主で、他に任せられる仕事なんてほとんどないらしい。実際はどうなのか私には分からないけど、火原先輩自身は別に緊張することもなく毎日楽しくやっているようだった。
 つい3日前だったか。どうしても会えませんか?とメールをしたら、いつもの場所に当然のように来てくれた。実習だとは言え、生徒を預かっていることに変わりはない。本当の教師よりもずっと責任はないにしても、それなりの責任と仕事があるはずなのに、そんなこと億尾にも出さずに会い来てくれたことがたまらなく嬉しかった。
 そう言うと、「香穂ちゃんに会いたかったのは、俺もだから」と笑顔でさらりと言ってくれる。たぶん、隣に土浦くんがいたのは見えてなかったんだと思う。
 さすがに「しっかりして下さい」と言ってしまった。
 そして、今日はといえば、高校のオケ部に顔を出す約束をしてしまったとかで、デートできずに私は家に居た。―――――そんな予定だった。


「おはよう、土浦くん」
「おう」
 昨日の帰り、ちょうど帰り道が一緒になった土浦くんが「楽譜、買いに行こうと思ってるんだが、お前も行くか?」と誘ってくれたから、用事もないしと一緒に出かけることになった。
 さすがに土浦くんも火原先輩の手前、誘うかどうか迷ったらしいけど、結局はどうせ楽譜買って、お昼食べて帰ってくるパターンだからと誘ってくれたらしい。
 確かに、そのくらいなら友達だったら行くよね、うん。
「俺は一応、目星つけてきてるけど、お前は?欲しい楽譜とかあるのか?」
「あー・・・別に決めてはないけど、ベートヴェンの10のヴァイオリンソナタってのがあるらしくて」
「へえ」
「ピアノ伴奏がつくやつでね、楽譜見てないからどのくらいの難度なのか分からないんだけど、今まで小品ばかりやってきたからソナタなんかもやってみようかなーって話してたんだ」

 高校時代、コンクール総合入賞やコンクールメンバーとコンサートをしたこともあった。そして、音楽科への転科の話も来ていた。けれど、私は音楽を自分のペースで続けて行きたいからと音楽科への転科を断った。
 今は、先輩と同じく教育学部に在学している。ただし、先輩は音楽科教育を専攻しているけど、私は国語科教育を専攻した。同じく音楽科にしたらどうかとの勧めがなかったわけじゃないけど、私が人に音楽を教えるなんてとんでもない。そう思ったから、私は得意だったし、割と好きだった国語科に進んだ。
 土浦くんは高校では音楽科に転科しなかったものの、大学は音楽学部の器楽科を専攻。ピアノを本気でやってみたくなったと話していた。あれだけ嫌がってたのにねーとからかったとき、「お前が・・・・っ」と言っていたのは何故なのか、未だに謎だ。教えてくれない。

「お前、別に演奏家になろうって訳じゃないのに、よくやるよな。古典が難しいって嘆いたり、漢文なんてー!って叫んだり、書道教室通わなきゃいけなくなったなんてぼやいてる割に、ヴァイオリンの練習は欠かしてないし」
「そりゃあね。ヴァイオリンはヴァイオリンで私の趣味で、大切なことだし。それに、周りが音楽に関わってる人たちばかりだもん。いくら私自身が音楽に関係ない道を選択してても、ライバルとまで言われたんだから、それなりに弾けていたいじゃない?」
 そういうもんか?と不思議そうにされた。
 そういうもんだよ、と笑って返す。
 
全く音楽に関係のない生活を選んでしまったことに後悔がないとは言わない。音楽科でなくとも、火原先輩と同じようにせめて音楽教育を専攻すればよかったんじゃないか、そう思わないとは言わない。
 それでも、日々音楽に関係ないことに終われ、そのあとに弾くヴァイオリンの音には自分自身が癒される。
 弾く曲は様々だ。月森くんほど完璧には弾けずとも、技巧系の曲も随分弾けるようになったんじゃないだろうか。
 留学先からたまに連絡をくれる月森くんはいつも私自身とヴァイオリンのことを気にかけてくれている。本当にどこまでも、どこまでも―――優しすぎる。
『いつか君の音が世界に響くと信じている』
 そう言われる度に泣きたくなる。
 私の音楽を認められるわけがないと責められたあの日から、私はどれほど変われただろう。どれほど変わったんだろう。
 火原先輩は、香穂ちゃんは香穂ちゃんのために音楽を続ければいいんだよと、ただ私の音楽への向き合い方を応援してくれる。
 月森くんは、君の音楽は世界のためにあると、世界を示してくれる。
 どちらがいいかなんて分からない。ただ、目の前にある『世界』と言う可能性を捨てて無難な人生を選んでしまった結果しか私の中にはない。
 音楽科を専攻しなかったことには確かに後悔もあるが、国語科を専攻したことに後悔がないのも事実だ。これはこれで私に合っている気がしないでもない。
 私のスタンスで、私のペースで音楽に付き合っていけばいいと思っている心の余裕を大事にできているのはいいことなんだと素直に思えるのも事実だ。

 そんなことを考えているうちに、目的の楽器店についた。
「香穂、お前はベートーヴェンだったか?」
「うん。土浦くんは?」
「ショパンのピアノ協奏曲2番。1番は持ってるんだが、2番持ってないことに最近気づいて。大学の図書館行けばあるんだろうが、それよりも自分で持っていたほうがいいに越したことないだろ?」
「それはあるかもね」
 それから最初に欲しいと言っていた楽譜はすぐ見つかったのにもかかわらず、関係ない楽譜をいちいち手にとっては曲を口ずさんだり、話が脱線してリサイタルの話になってしまったり、果ては大学の講師陣の話にまでなってしまった。
 待ち合わせを10時にしていてよかったと心底思った。楽器店に2時間も閉じこもるなんて初めてやったことだ。

「だからさ、2番の提示部の管弦楽の序奏は・・・」
「うーん、これって何かマイナスイメージっぽい感じなのかな。実際の音聞いてないけど、音符見てるとそんな気がするんだよね」
「そうそう、片想いに苦しんだショパンの心のうちがそのまま表れてると解釈されてる」
「やっぱりそうなんだね」
 店を出て適当なレストランに入ったあとも、話は尽きなかった。
 滅多にこんなに話すことはない。私自体があまりにも音楽の知識がなさすぎるし、周りに音楽について話すような友達もいないし。
 あまりない経験の上、相手が土浦くんだということで好き勝手に自分なりに感じたことを話してみる。
「この序盤での管弦楽からピアノへの受け継ぎのところなんだけど。このピアノって聴いてみるともしかして、そんなに切ないだけで終わるようなものじゃないの?この辺りなんて、音が多いし細かいよね。それを考えると、寧ろ片想いの切なさだけを語ってるわけじゃないと思うんだよ」
 どうだろう?と楽譜から顔を上げると、同じように楽譜を向いていると思っていた土浦くんは私のほうを見て少し笑っていた。
「え、なに?」
「いや?ただ、ここのところ少し落ち着かないと言うか、落ち込んでると言うか、まあいつものお前らしくなかったからさ。音楽のことになったら何もかも夢中になって、いつもの様子取り戻すんだなと思って」
 誘った甲斐があったと言うと、頼んでいたコーヒーに口をつけた。
 私もそれに倣う。
 ばれていたのか。
 以前は毎日のように朝と夕、下手したら大学構内でさえも一緒にいるのが当たり前だった先輩に今は会えない。
 それが少し不安になっているのかもしれない。
 たった2週間。そう思っても、そう言い聞かせても、会えない時間が不安にさせる。
 仕事の邪魔になるから、いつも会いたいなんてそんなことは言えない。
 休日さえも、生徒に来て欲しいといわれたら部活に顔を出さなくてはいけないようなことになっている。
「お前さ、この間も会っただろ?」
「うん・・・」
「メール自体は、ほとんど毎日やってるんだよな?」
「ここ何日かは1・2通だけだけど・・・」
「やっぱり辛いのか?1週間だけで?」
「・・・・・・・・・大丈夫」
 もっと会いたいと思っているのはバレバレな声で、精一杯強がってみる。
 別に遠距離恋愛してるわけじゃない。
 どうしてもと思えば会える。
 声を聴きたいと思えば、時間さえ考えればいつでも電話に出てくれる。


―――それでも寂しいと思う心を止められない。


 先輩を信じてるけど、相手は高校生だ。高校生は大学生からしても、十分恋愛対象に入るはず。なら、私以上に先輩に相応しい子もいるかもしれない。
 たぶん、私の最大の不安はそこにある。
 きっと大丈夫。心変わりしない。たった2週間じゃ変わらない。
 今だって必死に言い聞かせてる。そうしないと、まだ部活中だと分かっているのに、すぐせん先輩に電話してしまいそうだ。
 そんな縛るようなことはしたくないのに。


「がんばれよ」


「え」
「頑張れ。どうせあと1週間だろ?その間に何があるってんだよ。そもそも、先輩の性格からして浮気も心変わりもありえないだろ?しっかりしろ」
 つい3日前に先輩に言った言葉が返ってくる。
「あは、だよね、心配することないよね」
「当たり前だろ?」



 大丈夫。あと1週間だ。
 1週間したら、先輩と前のように話せる。
 一杯話したいことがある。
 2週間喋れなかった分を取り返すように喋り続ける私達を想像した。
 とてもありえそうな映像だ。


「早く、1週間経たないかな」





誰が待っていたのかと言う話で、教育実習生シリーズ追加。本当に誰も待ってない。
今回は火日を狙ったんですが、日+土になってしまった・・・。
火原ルートの香穂子は火原大好き!なイメージあるんですが、これは行き過ぎた…? ◇ 確かに恋だった 〜教育実習生に恋する5題〜
掲載: 08/05/06