「今日も楽しかったです」
助手席で楽しそうに笑う彼女に、それはよかったと素っ気なく返す。
元旦から香穂子からメールが来たかと思えば、それは明日一緒に初詣に行かないかと言う誘いだった。
「2日だから、初詣の人出も少ないかなあって思ったんですけど、全然でしたね」
「それはそうだろう。4日にでもなったら少なくなるだろうが、三が日はまだ多い」
「・・・楽しかったですけど、人が多すぎて疲れたのはちょっとなあ、でした」
「その格好のせいでもあるんじゃないかな」
昼近く。
香穂子の家の近くまで迎えに行けば、出てきたのは振袖姿の彼女だった。
いつもは当然、制服姿の彼女しか見ることはない。
去年の3月に行われたオケのコンサート以来、彼女のドレス姿を見ることもなくなった。
そんな中で、彼女の着飾った姿はほんの少しだけ、目を瞠るものがあったのは確かだ。
「似合いませんか?」
「・・・・・着物自体はいいものだと言うのは分かるよ。レンタルでもないんだろう?」
「・・・・・・・・お母さんが、何か知らないですけど買ってくれたんです」
答えながらも、むっとしたような表情に変わっている。
話の方向を変えたのが気に入らないらしい。
「ほら、もうすぐ家に着く」
家から少しだけ離れた場所に車を停める。
さすがに、学校関係者が正月早々に女子学生を連れ出したなどと親御さんに知られるのはまずいだろう。
知られたら知られたで、それなりの弁解も用意はしているが、面倒は避けるべきだ。
「ありがとうございました」
「ああ。楽しんでいただけたようで何よりだよ。・・・ただ、言っておくが」
一応の注意として言っておくべきだろう。
彼女の注意力のなさには、金澤さんも手を焼いたらしい。
「あまり頻繁に連絡を取ろうとするのは控えるべきではないかな」
「え?」
「君は今年卒業だし、もう星奏の大学への進学も決まっている。だが、私はまだ君の通う学校の理事長なのだがね」
ほけっとしていた彼女だったが、そこまで言うとようやく分かったらしい。
ああ、などと言っている。
「・・・迷惑でしたか?」
「・・・迷惑だ」
言い切ると、少し傷ついたようにしながら、ふいと目を伏せた。
「・・・・・・・すみませんでした」
「必要最低限のメールや電話に限ってくれ。何かあれば、こちらから連絡する」
「・・・はい」
力なく返事をした彼女は、もう一度深々と礼をして、家の中に入っていった。
彼女―――日野香穂子―――と自分の関係。
確かに、彼女のことは他の生徒たちよりも知っているし、その分、親しくしている。
週末のたびに、とは言わないが、頻繁に食事を共にすることもある。
最初は話が合わなくて疲れることも多かったが、彼女なりに努力しているらしく、最近は経済関係の話にもついてくるようになった。
それが全く楽しくないと言ったら嘘になることは自覚している。
いくら相手が気を遣わなくてもいい相手だからと言って、わざわざ週末の貴重な時間を誰かと過ごさなくてはいけない理由などないのだ。
それをあえて彼女と過ごしている。
生徒と理事長。
この関係から逸脱しているような気もする。
それでも、彼女から聞かれたときに答えたように、恋人なのかと聞かれればそれはない気がする。
彼女に大して持っているのは、親愛の情だ。恋愛感情ではない。
何より、10歳以上も年下の子供をどうやって恋愛対象として見ろと。
残念ながらそんな趣味はない。
彼女の気持ちを全く分からないとは言わないが、彼女だってただ身近にいる年上の男と言うものに憧れているだけだろう。
そんな女子生徒がいるから、世の中から高校教師と生徒のスキャンダルが絶えないのだ。
手を出す教師も教師だ。せめて卒業してからにするべきだろう。
そうずっと言い聞かせている。
彼女に対して思っているのは―――思っていいのは、親愛の感情だけだろう。
その晩。
昼間、香穂子に誘われた初詣のせいで仕事が片付かなかった。
仕方なく、学校が始まる前に行われる理事会の資料に目を通したり、書類を作成したりと、仕事に勤しんでいた。
全てを彼女のせいにすることはできないが、仕事が進まなかった原因の一つは確実に彼女だ。
どうしてくれる、と心の中で恨み言を言いながら、一枚、また一枚と資料を捲っていた。
もうすぐ日付も変わる。
昼間のうちに仕事が終わっていれば、金澤さんでも誘って飲みに行こうと思っていたのだが、それも無理だ。
仕事をしていても、ふと思い出すのは香穂子の楽しそうな笑い声だった。
恨み言を呟いても、不意に浮かぶのは香穂子の妙に大人びた振袖姿だ。
女性との付き合いがないならともかく、それなりに今まで経験している。
そのなかで、仕事の最中にまで思い出すような女性はほとんどいなかった。
いたとすれば、姉くらいのものだろう。姉の場合、付き合いと言っても姉弟の付き合いしかないが。
それなのに。
なぜ、彼女のことは気になるのだろう。
ファータがコンクール期間以外でも見える、唯一の一族以外の少女だからだろうか。
あの優しかった姉を思い出さずにはいられない音色を奏でる少女だからだろうか。
―――彼女自身の天真爛漫さに、呆れるほど救われるときがあるからだろうか。
無邪気に私と姉の問題に立ち入ってきた香穂子。
無神経さに苛立ったこともあった。それでも、最後には彼女の音に救われた。
澄み切った、清浄な音色。
そう思う。姉の音によく似ていた。
その澄んだ音色で奏でられる音は、いつも明るい未来だけを示したような音だった。
未来を信じて疑っていないとでも言うような、迷いのない音。
彼女の経歴を見れば、音楽界のサラブレッド・月森蓮とは全く違うことがよく分かる。
そんな彼女だ。迷いない音を奏でるようになるまで、何度も立ち止まることも、膝を折ったこともあっただろう。
過去の暗いところをみせない彼女に、ふと不安が過ぎるときもある。
恋も知らずに亡くなった姉とは全く違うと分かっているのに、彼女のあまりの前向きさに、彼女までいなくなってしまうのではないかと不安になることが――
「・・・空気でも吸ってこよう」
いきなり何を思っているんだ。
自分のいきすぎとも思える思考を停めて、冷たい風が吹き付けるのも構わず、ベランダに出る。
手すりに身を預け、席を立つ際に持って来た携帯を開く。
あと10数秒で日付が変わるらしい。
毎日日付を越えてから寝るにもかかわらず、こんな風にあと何秒と見ながら過ぎるのは初めてかもしれない。
「・・・・7・6・5・・・」
近づいてくる新しい日付に、思わずカウントダウンの声が漏れる。
そう言えば、大晦日から正月へ日付を越えるときでさえ、こんなことはしたことがなかった。
「4・3・・・」
そこまでカウントしたとき、画面はメール受信の画面に切り替わった。
誰だ?
思ったと同時に受信は完了され、送り主の名前が表示される。
From:日野香穂子
Title:HAPPY BIRTHDAY!!
Subject:
お誕生日、おめでとうございます!!
会うことはできないですけど、こうして吉羅さんのお誕生日をお祝いできるだけでも嬉しいです。
あなたに出会えてよかった。
ただ隣にいることしかできないし、それすら迷惑になるだけの存在かもしれないのは分かっています。
分かっていても、どうしたって想うから。
週末が楽しみで仕方ないのは、吉羅さんがいるからですよ。
今、私が言っていいのはこれだけだとは分かっています。
これすらも、言い過ぎなのかもしれないです。
あと少し、そうしたらちゃんと言ってもいいですよね?
本当に、言いたいことだけ言って終わってしまったようなメールだった。
驚くほど素直に想いを伝えてくるメール。
直接的な言葉はないが、これを誰かに見られたら関係を疑われても仕方ない。
「必要なこと以外、メールも止めるようにと言ったのに・・・」
こんなメールを送ってくるのは馬鹿らしいが、言い聞かせてわからない人間ではない。
不満げでも「はい」と言ったからには分かってくれたんだろう。
それなのに、言ったそばからこんなメールを送ってくると言うことは、それほどこの内容が彼女の中では重要だったと言うことか。
もちろん、携帯へ送られてきたメールは削除だ。彼女には悪いが、こんなもの残して置けるわけもない。
ただ・・・。
「・・・・・・・馬鹿か私は・・・」
削除をかける前。
普段使うことのないPCのアドレスへメールを転送していた。
これなら何かの間違いで仕事のメールと混同することもないし、携帯を落としたところで問題はない。
それに、送った先のアドレスへのメールなどたかが知れている。
アドレスを捨てない限り、ずっと残り続けるだろう。
こんなたかだか10数行のメールなのに、何をしているのか。
面倒なだけだろう。
隣にいられては迷惑だ。
年の差を考えたら、君はあまりに幼いだろう。
無邪気な笑顔は、眩しすぎる。
その音楽は―――無性に、手を伸ばしたくなる。
彼女を否定する言葉を並べようとしても、気付くとなぜか奇妙な言葉になっていく。
これではまるで―――――・・・
「・・・・・・・疲れているのか」
きっと疲れている。
残っている仕事は、起きてからにしよう。今はもう寝るしかない。
明け方。
仕事に取り掛かるよりも先に、携帯からメールを送る。
書き終わったメールにふと笑い、ようやく仕事に取り掛かった。
ようやくまともに仕事ができる。
脳裏に浮かぶのは、不貞腐れたように「分かってますよ!」と怒鳴りそうな彼女だ。
From:吉羅暁彦
Title:NO TITLE
Subject:
>>あと少し、そうしたらちゃんと言ってもいいですよね?
あと少しで世界に通用するヴァイオリニストになって頂けるのかな?
楽しみにしている。
なんてことないように付け足した「楽しみにしている」。
彼女は、ヴァイオリニストになることを楽しみにしているのだと取るだろう。
それは否定しない。でも、それだけでもないんだ。
今はまだ、認めたくない感情ではあるけれど。
君から本当にその言葉を聞いたら、認められそうな気がする。
君の未来がどうなるかは知らないが、君の隣で見ていたいと思う気持ちが、全くないとは言わないからね。