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贅沢だと言われても
どこまで俺は贅沢になってしまうのかな。
朝陽が部屋の窓から差し込む。
ウィーンはまだ少し肌寒い。日本もまだ3月下旬。こちらと同じくらい寒いだろう。
そこまで思って、ふと笑みが漏れた。
もうすぐ、香穂ちゃんがこちらへ来てくれる。
ホワイトデーが終わってすぐにこちらへ来て、翌日にはチケットを予約して香穂ちゃんに送った。
そうしたら、数日後にはメールが届いた。
From:日野香穂子
Title:ありがとうございました!
こんにちは・・・で、合っていますか?
こちらはもう夜なのでよく分からなくなってきます。
今日、チケットが届きました。
学校があるから数日しかいられないですけど、絶対に行きます。まだパスポートの期限が切れていなくてよかったです。
本当に行くのが楽しみ。ウィーンに行けるのもそうですけど、なによりも先輩に会える。
先輩のヴァイオリンを聴ける。
明日はウィーン行きのための買い物に、菜美と笙子ちゃん、加地くん、土浦くんが付き合ってくれるんです。
ええっと、報告だけなんですけど。
それでは、お休みなさい。風邪に気をつけて下さいね!
香穂子
そんな内容だった。
俺と俺の音を心の底から待ち望んでくれているのが分かって、少しだけ安心した。
何度、一緒にウィーンへ行って欲しいと言いたかったか。
何度、君に傍に居て欲しいと言いたかったか。
でも、言わなくてよかった。
離れている分、こうして逢える約束をすることができる。
近くにいたら、こんなに幸せになれるメールは貰えなかった。
「それじゃあ、行ってきます」
生活が落ち着くまでと、とりあえず借りたアパートの管理人に挨拶をして、公園へ出向く。
こちらでは街のいたるところで音楽を奏でる人、それに聴き入る人に出会う。
一人で弾いている人もいれば、アコーディオンやフルートなど他の楽器と合わせている人も。
最初はそんな違いにも驚いたけど、今はそれが当たり前の光景になった。
これを見たら、香穂ちゃんはどういう反応をするだろう。
驚くかな。楽しそう、と笑うかな。私も弾きたい、と喜ぶだろうか。
どの反応もありそうで、思わず笑みが零れる。
早く逢いたい。
去年こちらに来ていた時よりもずっと幸せなはずなのに、去年よりもずっと香穂ちゃんに逢いたいと思っている。
香穂ちゃんが俺をどう思ってくれているのか分かっているのに、それだけじゃやっぱり足りなくて、直に逢いたいし、触れたい。
どこまで俺は贅沢になっていくんだろう。
香穂ちゃんの頑張りに支えられて、音色に救われて。
それで乗り越えた国際コンクール。
帰国したら待っていたのは、コンクール前とは一変した日本での生活。
そこでも俺を支えてくれたのは、香穂ちゃんだった。
彼女自身、いきなりコンミスに指名され、しかもコンミスだと理事たちから認めてもらえない状況。学院生徒からの風当たりも相当厳しかっただろうに、気にした風もなくただ俺の前では笑っていてくれた。
ボランティアを断られたときも、話をゆっくり聞いてくれて。
休日のデート・・・だったのかな。
デートの時も、俺のせいで何も楽しいことはなかったはずなのに、また次の週、練習を見て欲しいと誘ってくれた。
あの時、どれだけ彼女の存在と、優しく柔らかな音に癒されたことか。
彼女といるときだけは、コンクールに出場する前の自分でいられた。
それが堪らなく心地よくて。
でも、反対にそれでいいのかと思ったときも多かった。
俺は明らかに香穂ちゃんを心の支えにしてしまっていたし、好きだとも思っていた。
でも、彼女は?
彼女の支えになれている?
彼女は俺のことをどう思っているんだろう?
彼女はそれこそ、みんなに優しかったから。
誰にでも笑いかけて、優しさを分けてあげていて。
それが少しだけ、不安だった・・・。
「・・・・・・・・・色んな思い出があるね」
情けないこともあった。
特に秋からはみっともないところばかり。
春の頃は、彼女のためになっていると思えることもあったけど。
観覧車に乗りにも行った。
一緒にアイスを食べたことも、学内コンクールの写真を一緒に眺めたことも。
ウィーンに来てからは、彼女からのメールと電話が一番の楽しみだった。
ああ、クリスマスコンサートで駅まで一番に迎えに来てくれたのも香穂ちゃんだったね。逢うなり満面の笑顔で「お帰りなさい」。待っていてくれたのだと嬉しかった。
そして、俺がウィーンへ行くといった時、寂しそうにしながらも喜んでくれたのは、痛いと同時に嬉しくもあった。
こんなものじゃない。
まだまだ一緒の思い出はある。ありすぎて、一つ一つ挙げていったら限がないほどに。
肩にかけていたヴァイオリンケースを開けて、ヴァイオリンを取り上げる。
弾く曲は決まっていた。
香穂ちゃん。届いている?
この音は、君のためだけに。
俺の音を待ってくれている人は大勢いるけど、やっぱり一番に届けたいのは君だから。
「好きだよ・・・本当に」
覚えている?
「汝を愛す」。
君と一緒に奏でたね。
有名で、君とも一緒になぞった旋律をまた繰り返す。
本当に。君を想って奏でる音は、どこまでも柔らかく、心に染みるように響いていくよ。
俺のこの音が君だけに向かっているように。
君の音が、俺にだけ向かっているのなら、それはどれだけの幸せだろう。
そこまで思って、ふと苦笑した。
どこまで貪欲なんだろう、俺は。彼女の音楽は、世界のものなのに。
でも―――。
信じていいかな。
音楽は世界のものでも、君の笑顔と存在は俺の傍にあるんだと。
「本当に、どこまで俺は贅沢なんだろう・・・」
次に奏でるのは、小舟にて。
君が俺のもとに来てくれるまで。
俺はゆっくりとこの曲を奏でよう。
君が俺のもとまで来てくれたら。
今度はこれを一緒に弾こうね―――。
「汝を愛す」=「優しき愛」です。汝を愛すの方が一般的っぽいので。
小舟にては、王崎がアンコール中のコンサートで演奏した曲。
王崎の特別曲だったので、素直にルビパは選曲が上手いと思いました。
◇
恋したくなるお題
〜遠く離れた恋の路〜
掲載: 08/05/09