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この恋の距離

「な、王崎頼まれてくれないか?」
「いきなり言われても・・・。うん、でも、聞いてはみるよ。ダメだったらごめん」
「それは仕方ない。分かってる。じゃ、頼むな!」
 済まなそうにそう言って去っていく友人を見送りながら、ふと頭の片隅を掠めたのは一人の女の子だった。



 俺がなんでヴァイオリンを始めたかは覚えていない。幼い頃から、特に目的があった訳でもなく、弾けば両親が、兄弟が、その他大勢の人が喜んでくれたからヴァイオリンを奏で続けていた。
 俺自身にとって幸いだったのは、喜んでくれてはいたが、ヴァイオリンを強制されたことがないことだった。
 経験がないから分かりづらいけど、最初はよくても、強制されるうちにヴァイオリンが嫌になるという例はいくらでもあるみたいだし。
 ヴァイオリンに限らず、何であっても。それがなかったのが、俺の幸いだった。
 のびのびとヴァイオリンを奏で続ける日々。
 高校は音楽科のある星奏学院へ。大学も附属に進学した。
 そして、大学生活も残り2年という時、彼女に出会った。
―――日野香穂子。
 普通科の2年生だった。
 ワインレッドの長い髪が印象的な、元気で可愛らしい女の子。
 それが第一印象。
 最初の出会いは、第1セレクションが終わってすぐだったはずだ。
 学内コンクールが開催されるというから見に行ったら、普通科生が2人も出ていて驚いた。今まではすべて音楽科生だけの出場だったものだったから。
 出場者は二人とも2年生で、ピアノ登録が土浦梁太郎くん、ヴァイオリン登録が日野香穂子さんだった。
 二人とも普通科とは思えないと言っては失礼だけど、その時の心情そのままに言ってしまえば、普通科に置いておくのは勿体無いと思うほどハイレベルな演奏だった。
 結果は土浦くん三位、日野さん二位、優勝候補月森くん優勝。
 他の参加者のレベルが決して低かったわけじゃない。寧ろ、俺がこの場に参加していたら優勝を望めたか分からないほどのレベルの高さだ。
 その中で、普通科の健闘はまたたくまに大学部まで伝わった。名前まで浸透はしなかったけれど、普通科の2年生ということは、翌日にはほぼすべての学生、すべての教授陣の知るところとなった。
 その後のコンクールは混迷を極め、日野さんが優勝することもあったし、火原くんが優勝をするときも、柚木君が優勝をするときもあった。
 さすがに月森くんが三位以下に落ちることはなかったが、第1セレクション以降、優勝しなかったことを考えても、他の参加者のレベルが窺えるというものだ。
 第1コンクールが終了して数日。
 たまたま日野さんに会う機会があった。
 それからだ、俺と日野さんが話すようになったのは。
 最初は、ヴァイオリンをいきなり渡されたことに戸惑っていた彼女を慰めた。
 次は、ヴァイオリンがただのヴァイオリンではなくリリが造った物だと打ち明けられた。
 これには多少驚いたが、だからと言って彼女を責めるなんて思いもしなかった。彼女は、魔法を使っていたが、奏でられた音が魔法だったかと言えばそんなことはない。音は彼女のものだった。彼女の人間性を表すように、どこか頼りない音だったけれど、どこまでも素直で、素朴だった。
 月森くんの冴えた音も素晴らしい。技術で彼を越えるのは難しい。表現力もある。
 それでも、俺自身が聞きたい音は彼女の温かい音だった。
 彼女の音で、俺自身に激変があったかと聞かれれば―――あったのかもしれない。
 自覚はあまりないけれど、ふと思い出すのは彼女の音で、彼女の笑顔だった。
 辛い思いもしたはずなのに、俺の前で奏でられた音はすべて前へ、未来へ向かっていくような颯爽としたものばかりだった。第1セレクションで弾いたアヴェ・マリアの1音1音が忘れられないほど澄んでいたことを覚えている。
 これほどまで彼女の音に囚われる理由は分からないけれど、きっとそういうことなのだろうと思う。
 彼女の音が好きで、彼女自身にも惹かれている。
 今は言わない。今の自分では伝えることが出来ないような気がしてしまう。
 そんなことを思っている折に、ある人との出会いとその人から預かってほしいと頼まれたヴァイオリンに出会った。
 そして、思った。国際コンクールに出てみよう、と。
 どうなるかなんて分からない。それでも、試してみたかった。
 彼女とは離れることになるけれど、国際コンクールを通して、彼女と今までと違う形で向き合える気がしていた。



「あれ、冬海さん?こんにちは」
「王崎先輩。こんにちは。オケ部ですか?」
 友人からの頼まれごとを持って、学院の門を潜るとオケ部に入部した音楽科1年クラリネット専攻の冬海笙子さんがいた。
 気が優しくて、日野さんを姉のように慕っている子だ。控えめだけれど、前回のコンクールで自信がついたところもあるらしく、こうして部活動にも参加してみる気になったらしい。これも日野さんの影響かな。
「うん、それもあるんだけどね。ちょっと会いたい人がいて」
 さすがに日野さんに会いに来たとは言えずに、誤魔化す。
「そうなんですか?あ、オケ部って言えば、今度定演があって、その選曲を先輩にも見ていただきたいって話していたんです」
「そうなの?俺が混ざっていいのかな。俺はいいんだけどね」
「もちろんです。みんな、先輩と一緒に選びたい、って言っています」
「そっか。なら、あとで行くね。・・・・・・それにしても、冬海さんもみんなに馴染んだようだね。安心したよ」
「あ、はい、えっと、最初は怖いな、って思ったんです。でも、今はそんなことなくて。一人でやる音楽よりも、大勢で創る音楽の方が楽しい、って思えるようになったんです」
 その言葉で、ふと思いついた。
「ねえ、冬海さんはボランティアしてみる気ない?」


 友人から受けた依頼は、バザーでのコンサートだった。
 人数、形態は問わない、本当に簡単なもの。
 時間もないから、あまり制限してもいられなかったのかもしれない。
 最初は友人が出るらしかったのだが、予定が入ったらしく、こっちに話が回ってきてしまった。
 最初に思い浮かんだのは、日野さんだった。
 彼女なら引き受けてくれるかもしれない、そう思ったから。本当に受けてくれるかは分からなかったけれど、聞いてみるだけ。
 そう思ってきてみたら、冬海さんがいた。


「バザーでのコンサート・・・」
「うん、軽い気持ちでやってくれればいいんだ。どうだろう?」
 そう言ったとき、
「あれ、王崎先輩に、冬海ちゃん?」
「日野先輩・・・!」
「日野さん、こんにちは」
 驚いたように立っていたのは、日野さんだった。
「こんにちは。お久し振りです」
 確かにここのところあまり会えていなかった。だからと言って数ヶ月別れていたわけでもないのに、妙に懐かしい。
「何のお話をされていたんですか?」
「ああ、そうだ。日野さんと一緒にアンサンブルしてみたらどう?」
 アンサンブル?と言いたげに、小首をかしげる日野さんと、「そうですね」と胸の前で手を叩く冬海さん。


「そんなものがあるんですか」
 一通りバザーの件を説明すると、そう言った。
「楽しそうですね」
「そう思う?じゃあ、もしよければなんだけど、冬海さんとアンサンブル、してみない?」
「冬海ちゃんと!?」
 日野さんが驚いたように素っ頓狂な声をあげて、冬海さんを見た。
「え、ええっと、私は・・・」
「無理です無理です!」
 冬海さんが何か言おうとするのを塞ぐように、日野さんの慌てた声が上がる。
「無理かな。俺はできると思うよ。二人とも実際仲がいいし、コンクール期間中もよく合奏してたよね、二人で」
 コンクール期間中に聞いたメロディは、メロディの憂いを帯びた曲調を二人でよく掴んでいたと思う。
 初めて合わせたときはそれなりだった曲が、何度も合わせるたびに上達していくのは普通だが、この二人の場合、1回合わせるごとの成長振りが群を抜いていたのが印象的だ。
 この二人だったら、きっとまた合わせることも出来ると、そう思う。
「・・・冬海ちゃんは・・私なんかとで、いいの?」
 躊躇いがちに訊く日野さんに、勢いよく、
「もちろんです!先輩がよろしいなら、ぜひお願いします・・!」
 勢いよすぎだよ、と注意を入れたくなるほどの勢いだ。
 そこまで力説するのかと思ってしまう。
「あは、冬海ちゃんがそう言うなら」
「じゃあ、頼んでいいってこと、かな」
「はい、8日後のバザーですね。・・・先輩は?王崎先輩は参加されないんですか?」
「俺も参加できたらいいんだけど・・・今回は」
 コンクール前で、さすがにそちらに出ているだけの余裕はない。だが、説明もまだできない。決め手になったのは別の人だとしても、日野さんの影響で国際コンクールを意識したとは言いづらい。
「え、そうなんですか?」
「うん、参加したいのはやまやまだけど、今回は見送って、日野さんたちの演奏を楽しみにしようかなって。あ、でも、手伝えることがあれば手伝うから、言ってね。しばらくは毎日来れそうだから」
 そう言うと、日野さんが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、これからは毎日会おうと思えば会えるんですね」
「え」
 何気ない、たぶん、日野さんにとったら挨拶のようなものだったのかもしれない。
 それでも訊いてみたくなる。
 俺に少しでも会いたいと思ってくれたのだろうか。
 少しでもいい、俺のことを気にしてくれているのだろうか。
 今までは思ったこともないようなことなのに、日野さんが相手だと気になることばかりだ。
 どう思われているのか。
 こんなことを言ったら日野さんはどう思うのか。
 経験がないことばかりで、戸惑ってしまう。
 金澤先生なら笑い飛ばすようなことかもしれない、と頭の片隅で考える。まあ、あの人が笑い飛ばそうがなんだろうが、今自分自身が慌てふためいていることに変わりはないが。ないが、なんとなく情けない。
「って、あと8日?今から楽譜見て、浚って、合わせるの?うわあ、時間ないよ!?」
「それに、私たち2人だけでの演奏というのも、音に厚みが出ませんよね・・・」
「じゃあ、他にも弾けそうなメンバー探さなきゃ。王崎先輩、私たちはこれで失礼しますね」
「え、あ、うん。面倒なこと頼んでしまって、ごめんね」
「いいえ、気にしないで下さい。また明日、お会いできますよね」
「―――うん」
 慌てたように走っていく二人の女の子の背中を見ながら、やっと息をついた。




 離れていく君を見ながら、さっきの言葉を思い出す。
「会おうと思えばいつでも会えるんですね」
 分かってる。
 挨拶のような、社交辞令のようなものだよね。
 でも、期待していいかな。
 まだまだ遠いけれど、少しずつ距離は縮まっているよね?





シリーズ物っぽくなってしまった感が・・・。
そんなつもりはなかったんですが。
2の進行とは随分違ってしまって、違和感ありまくりですみません・・・。
◇ 恋したくなるお題 〜遠く離れた恋の路〜
掲載: 08/05/06