「なんでこんな人がいいんだろう・・・」
手元のケータイに表示されるメールを見て、心の底から疑問とため息が漏れた。
自分の趣味が分からない。
理事長に言われて始めた学内アンサンブル。
2回のコンサートを無事に終え、その後のオーケストラもつつがなく終了した。
音楽科からの評判は総じて言えば、よかった。
もちろん、批判的な意見がなかったとは言わない。それでも大分減って、「日野さんでよかった」とすらメンバーからは言ってもらえたのだ。
一緒に演奏した普通科の奏者たちも、楽しかったと笑ってくれた。
私自身も、とんでもなく忙しく過ぎていった一ヶ月半だったけど、思い返すとやっぱり楽しかった。
風当たりはきついし、柚木先輩には何度となく辞退しろと言われた。
しかも、俺が口添えしてやると言われたときは、先輩の本気っぷりに動揺を隠せなかった。
それでも辞めなかったのは、ひとえに理事長のためだった。
最初は私だって「わざわざ私でなくとも優秀な人材はいくらでも音楽科に・・・」と思ったのだ。でも、理由はどうあれ、理事長は私を推してくれた。なら、私はその期待に応えようと思った。
それで乗り切ったようなものだ。
期待に応えよう。
たぶん、その理由はこの上もなく簡単なことだ。
理事長に私自身と、音楽を認めて欲しかった。
音楽を嫌ったまま、何事もなく平坦な日々を過ごしていた理事長に、私の音楽で昔を思い出して欲しかった。
理事長に音楽を捨てると決意させるほどの苦しくて、辛い思い出が過去にあるのは、コンサートの準備に追われている時に知ったときだ。
その時は、本気で後悔した。
音楽の道に戻って欲しいとか、昔を思い出して欲しいとか、私が言っていいのか、と。
私でなくても、誰も言えないことな気がした。
別に理事長は音楽がない生活でも困ってなんてない。平然とすごしている。
なら、私が思ったことはものすごく失礼で、余計なお世話もいいところだったんじゃないかと思った。
でも、気づいた。
過去に何があろうと、理事長は未来に生きる人だ。過去に生きる人じゃない。
理事長が音楽に絶望したと言うなら、余計なお世話だろうとなんだろうと、私が思い出させてあげようと思った。
音楽は理事長に大きな傷を遺していったけど、その前には絶対に温かくて、ただただ穏やかな思い出があったはずだ。
辛い思い出に蓋をしたいならすればいい。でも、音楽まで切って捨てるのは寂しすぎる。私のエゴなのは分かってる。
それでも、そう思うことは子供の私には止まらなくて、ヴァイオリンを弾き続ける日々が続いたのだ。
オーケストラコンサートも終わって、ようやく来年からは受験に集中できると胸を撫で下ろしていた日々。
信じられないほどゆったりと時間は流れていて、一日は長いんだとしみじみと実感していた。
その時までは。
唐突にケータイが鳴った。
画面には見慣れない数字の配列。誰か登録していないケータイからの電話だと言うことは分かった。ちょっと待って。こんなゆっくりと過ごしたい日に、誰が何の用なの。
無視しようかと思ってケータイにのばした手を止めた。
でも。
電話番号を教えても、反対に教えられていない友人はいくらでもいる。
もしかして、そういう人?
とっさに2・3人の顔が浮かんだ。
そんな人たちなら無視もできない。誰か知らない人だったり、迷惑電話ならその場で切ればいい。
そう思って、止めた手を相変わらず鳴り続けているケータイに伸ばした。
「はい、もしもし」
日野です、と続けようとして絶句した。
『日野くんかね?』
なぜ。
一番最初に浮かんだのはそれ。なぜ、理事長から電話が来る。
アドレスは愚か、電話番号なんて知らせた覚えもない。
「・・・・・・・・・・・理事長・・・?」
『そうだが。君は日野くんとは違うのか?』
「いえ・・・日野ですが・・・」
明らかに怪しむ私の声音に気付いたのか、少し笑って、
『番号のことなら、君の友人の―――報道部の彼女が教えてくれたよ』
「菜美ですか・・・」
教えかねない。
というか、理事長も誰だか名前も分からない生徒によく声を掛けたものだ。あれだけ対立していた理事長に素直に番号を教えた菜美も菜美だ。
とりあえず、勝手に番号を人に教えるなと注意しておかなければ。
『今日は何か予定はあるのかね?』
「予定?」
机の上の時計とカレンダーを見てみると、もう11時半を過ぎている。そして、予定もない。
別にどこに行く予定もないが、よくここまでゆっくりしていたものだ。
「別に予定はありませんよ。あ、でも、夕方は少しヴァイオリンでも練習しようとは思ってますけど」
そうか、と言ったあと、少し黙った理事長は突拍子もないことを言ってきた。
『では、私と昼食でもどうだろう。30分ほどで君の家の近所まで行けるから。十字路で待っていてくれないか』
「はい!?」
これまでのコンサート期間中も、何度か休日に連れ出されたことはあったけれど、わざわざ誘われたのは初めてだ。
あの理事長が! まさか私を!
『では、頼んだよ』
一方的にそう告げて、やっぱり一方的に電話は切られた。
「・・・・・・・・・・え、30分・・・?」
勢いよくクローゼットを漁るハメになった。
あの電話は本当に驚いた。
でも、あんなものに驚いていてはいけなかった。
初めて連れて行かれた時に思い切って、いや、今思えば思い切りすぎだが、これにはどういう意図があるのか訊いてみた。
『私たちって、付き合ってるんですか?』
至極当然な顔をして、「こうして昼食に付き合ってもらっている」と言われた時の脱力感は未だに忘れない。誰がボケろと・・・!
そのあとは、これでもかと当然の顔をして年上になったら、文科省関係者になれたら、ヴァイオリニストになれたら考えてもいいと言われたのだ。
結局はぐらかされた。
そりゃそうだろう。いきなり言われても驚く。私だって、自分で口走っておいて驚いた。
ついでに、日曜に誘う相手は私しかいないんですかと照れ隠しのように突っかかったら、面白がるように「大きなお世話だ」と言われた。
ああそうですか!
だから、本当に気まぐれだと思ったのだ。これがたぶん、こうして誘われるのは最初で最後。
それなのに。
From:吉羅暁彦
Title:no-title
今日は時間は空いているだろうか。
もし空いているなら、また昼食を一緒にどうだろう。
簡潔すぎます。
たった2行のメールって何それ!
そりゃ、長々メールを打たれてもイメージと違いすぎて怖いけど、これはこれで短すぎて怖い。
金澤先生でも、もう少しまともなメールくれますよ。
そう毒づきながらも、やっぱり嬉しいと思ってしまう。
恋人なんておこがましくて言えないけれど、それでもこうして誘われるのは私なのだ。
もうすぐ理事長と出会って2回目の秋が訪れる気配が漂っている。
空は高くて、太陽の光がいっそ痛いくらいに降り注ぐ。
海が見えるところで、ゆっくり最後の夏を味わいたい。
いきなり誘う代わりと言うように、いつも私のリクエストに答えてくれる、ひどく捻くれた人の顔を思い出してふと笑う。
もうすぐ秋なのにか?と呆れながらも連れて行ってくれる姿が目に浮かんだ。
To:吉羅暁彦
Title:リクエストです
今日は、海の見えるレストランに行きたいなーって気分でした。
どうですか?
ダメなら他のところでも全然大丈夫です!
最後の一文に自分でも呆れてしまうが、どうしてもこの一文を抜かせない。
言葉は違っても、こういう1歩引く文章を入れないと落ち着かない。
絶対聞いてくれると分かっていても、やっぱりわがままを最後まで言うことはできないのだ。
どう言いつくろっても嫌われたくないと言うことだけは確かで。
どうしてあんな捻くれていて、どう考えても女子高生が挑戦するにはハードルが高すぎる人なのに惹かれてしまうのだろう。
分かっているのにやめられない。
また、ケータイが鳴った。
From:吉羅暁彦
Title:no-title
海の見えるレストランは、本来なら夏の物だと思うのだが。
が、予約は取っておいたので、20分後にいつもの場所で。
そして、細かいようだが「全然」は、基本的に否定文に使われるものだよ。
誰か、この酷く空気を読めない人をどうにかしてください。
本当に私はこんな人のどこがいいの。
自分の趣味に頭を抱える日が来るとは思ってなかった。