「・・・・・・来た」
たった1通。
いくつも返信の中から、その送り主の名前にだけ思わず反応してしまった。
ウィーンに来て、もうそろそろ一ヶ月。
こちらの雰囲気にも慣れ、ドイツ語もそれなりに理解できるようになってきたし、話せるようにもなってきた。月森くんと違って日本語に慣れ親しんできた身だから、ネイティヴのような発音は無理だけど・・・。
毎日のようにヴァイオリンを弾き続けていると、日本にいた頃と同じだけの練習しかしていないのに、それ以上に疲れた気分になる。
きっと、気を紛らわせていた大学やバイトがなくなったことが原因かな。
よく甘えてきた弟たちと話すことも、ほとんどない。きっと、それも原因の一つ。
数日に1回は長々と電話をかけてきてくれて、随分気分が紛れてはいるけどね。
そして、何よりも彼女―――香穂ちゃんと会うことも、話すこともあまりできなくなってしまった。
家族の誰と話すよりも、彼女からの1通のメールが嬉しい。
彼女の何気ない気遣いが窺えるメールには、どれだけ救われているか。
きっと彼女は、俺がどう思ってメールを読んでいるかなんて、知らないんだろう。考えてもいないかもしれない。
それでもいい。
俺のためを思って書いてくれた、それが嬉しいから。
定期的に、こちらの様子はメールするようにしていた。
音楽をやっていて、彼らほどの熱意があるのなら、ウィーンに限らずヨーロッパについて、国際コンクールについては興味があるだろうと思ったから。
関係ないことでメールしたこともあったけれど、基本的にはコンクールの様子や俺の成績のことだった。
反対にみんなから送られてくるのは、毎日どんな練習をしているかとか、応援のメール、次のコンサートについてだった。
そんな日本での日常を思い出させてくれる。
メールの内容は、同じメールに対しての返信でも人それぞれ。
ここまだバラバラな内容になるのかと思うほど。
例えば、火原くんなんかは、オケ部の様子やアンサンブルの進み具合、練習曲についてを書いてきてくれる。まあ、この前は、カツサンドが売り切れていたと泣きが入っていたけれど・・・。
柚木くんは、俺への応援やこちらの様子について。
月森くん、土浦くんは意外と同じ内容が多い気もする。二人とも、アンサンブルについてが主で、土浦くんは練習の内容とか、メンバーの調子についてが多いかもしれない。月森くんは、メンバーの様子とアドバイスを、とお願いされたりすることもある。
加地くんは、アンサンブルよりもこちでの公演が気になるようで、加地くんが好きらしいオケを見に行ったと言ったら、感想を送ってくれと言われたくらいだ。
冬海さんは、オケ部の話題が中心。次の定演の演奏曲がなかなか決まらないと言っていた。ああ、火原くんも同じことを言っていたことがあったかもしれない。
志水くんは・・・本当にまちまち。アンサンブルについてどうすればいいかずっと書いていたかと思ったら、いきなり猫の話題が来たこともあった。よく分からなかったが、カタカナの名前に落ち着いたとは書いてあった。
そして、香穂ちゃん。
香穂ちゃんは柚木くんと同じで、俺の様子やこちらの様子についてが多い。
以前は、弓を落としたと言ったら、メールじゃなく電話までくれた。
心配させてしまったと、すまなく思いもしたけれど、やっぱりそれに勝ったのは彼女の声が聞けた嬉しさと、彼女の存在を確かめられた安堵感だった。
今日の午後、またメールを送ってみた。
日本時間の夜遅くに送ってしまったこともあって、夜の9時を過ぎた頃からメールが何人からか送られてきた。
最初は、志水君。続いて、冬海さん、柚木くんからメールが来た。
それぞれみんな朝が早いらしい。
遅れて火原くん。
その次に来たのが、香穂ちゃんからだった。
「香穂ちゃん・・・」
いつも通り、なんでもないメールのはずなのに。
どうしても、この名前が表示されると落ち着かない。
ずっとそうだった。
日本にいる頃から。
コンクール期間中、観覧車に誘った時も。
コンクールが終わって、ただ用事もなく連絡を取り合っていた時も。
この名前だけが特別だった。
何度も何度も見ている名前なのに未だに落ち着かない自分に苦笑してしまうけれど、その度に確認する。
俺自身の中での香穂ちゃんの位置。
ただの後輩なんかじゃなくて、ただ一人の女の子なんだって。
だからこそ、「たかがメールの1通」だなんて思えない。
知ってる?
こんな風に思ったのは、君が初めてなんだ。
今まで女の子と付き合ったこともあったよ。俺なりに大事にしたいと思った子だった。
それでも、今香穂ちゃんを想う気持ちとは違う。
あれは「友情」だったんだって、今なら分かるよ。
本当に君が大事だよ。
そうして、ゆっくり息を吸い込んで。
ようやくボタンが押せたんだ。