いつも、いつも怖がってたんだよ。
知られないように、必死に必死に隠してる。
「おはよう、加地君」
「おはよう、日野さん」
家の近くで会った加地くんは、朝から爽やかな笑顔で挨拶を返してくれる。
「よかったー、今日、家を出るのがギリギリになってしまってね。会えるかどうか分からなかったけど、会えてよかった」
「私も少し遅くなっちゃったから。この時間だと、学校で会うかなーって思ってたよ」
「僕も。・・・ああ、そうだ―――――」
笑顔で話し始める加地くんに笑いかける。
私が笑えば加地くんも返してくれる。
そのことが嬉しい。
出逢えてよかった―――素直にそう思える瞬間。
「香穂、おはよう」
「あ、おはよう」
「今日も加地くんと登校?仲いいよね」
冷やかしてくるクラスメイトの声に苦笑で返して席に着く。
でも、この声もすぐに収まるに違いない。
「加地くん、いる?」
「僕?」
ほら、まただ。
転校してきてからこちら、2週間に2・3人にはこうして呼び出されてる。
みんな可愛い女の子。
誰を見ても加地くんの隣が似合いそうな、小柄で笑顔が似合う子たちばかり。
中には柚木先輩からの宗旨替えもいるほどだ。
先輩としてはうるさい人間が減って、そこだけは加地に感謝してやってもいい、らしい。
態度がどう見ても感謝する側の人間に見えなかったが、さすがに黙っていた。
・・・・・・・・・・黙っていたのに、「失礼なやつだな」と言われたのは、心でも読まれたんだろうか・・・。
「ええっと、じゃあ私行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい。頑張ってね」
「コンサート、私たちも聞きに行くからね」
ありがとう、と手を振ってヴァイオリンケースを抱える。
今日はどこでできるだろう。
練習室・・・は、確実に音楽科生だよね・・・。
音楽室はオケ部が今日は使うだろうし、準備室行ったら迷惑かな・・・・・・。
ふら、と屋上に出ると聞きなれた音が聞こえた。
「ヴィオラ・・・?」
これは、ルスランだろうか。
難曲だからやめようかと思っていたけれど、やってみるよと言われて1曲に加えた。
しばらく入り口のところで聞き入る。
これは、上で弾いているのかな。
ヴィオラの音しかしない屋上は、寒々とした空なのに確かに華やいだ風が吹いている気がした。
この曲調が華やかなだけじゃない。
地味に聞こえるヴィオラなのに、加地くんの弾き方がこの曲をヴィオラ1本でもここまで聞き惚れるほどに人を惹きつけている。
金澤先生の言葉通り、加地くんの求めるレベルがどこにあるのか知らないけれど、加地くんのレベルはどう聴いても私以上だと思う。
この音に惹かれるのは決して私だけじゃないはず。
言葉にはしなくても、土浦くんも柚木先輩も、もちろん月森くんだって認めているのは分かる。
まだ最後まで通して弾ける段階ではないみたいだけど、それでも所々に加地くんらしい音が混ざる。
この音が好き。
同じヴィオラなら他に上手い人もいると、それは分かっている。
それでも、このヴィオラの音だけが好きだ。
みんなも彼の努力と、その末の音を認めてくれているから一度たりとも他の人間にやらせるべきだなんて言わないんだろう。
「・・・・・・・・・・・・まあ、辞めるべきは私かもしれないけど」
加地くんがあそこまでアンサンブルを辞めたいと言ったのに、私は前だけ向いてやってきてしまった。
加地くんの迷惑も考えずに。
他のメンバーの都合も考えずに。
私が迷惑を持ってきているのだから、私さえ辞めれば問題はなくなるはずなのに辞めずにいる。
「・・・・・・・・・迷惑だよねえ」
心の中だけにしようと思っていた言葉が独りでに口から滑り出してしまった。
「あれ、日野さん来てたの?」
「えっ、うわ、ごめんね!今すぐ違うところ行くから!」
ここで練習を聴いていたなんて言えない。
前に聞いてしまったとき、すごく嫌そうだった。
『実は必死?なんて思われてたりして・・・嫌だな』
自嘲の笑みを浮かべ、わざと自分を傷つけるような言い方をした加地くん。
そんなこと思わないのに。
「いいよ、気にしないで。それより、せっかく来たなら聴かせてくれないかな、日野さんの音」
「・・・・・・・・・・・・・いいの?」
「何言ってるの。僕は日野さんのファンだよ?聴ける機会があるなら1回だって逃したくないよ」
「・・・・うん」
ヴァイオリンケースを開けると、手に馴染むヴァイオリンを手にした。
「・・・何がいいかな」
「うーん・・・ああ。じゃあ、セレナーデかな」
「!」
加地くんがセレナーデの意味を知らないわけがない。
それなのに、敢えてそれを選んだ理由は・・・?
「・・・え、あの、日野さん・・・?いや、そんな本気じゃないから!ごめんね、ホントごめん」
「あ、あはは、そうだよね」
「ええっと、じゃあ――ラルゴ。いいかな」
ヘンデルのラルゴ。
ヘンデルと言えば「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」が一番に思い出す人が多い。
確かに華やかで、一度聴いたらメロディは忘れられない、それだけのインパクトがある。
それに比べてラルゴは、ここという盛り上がりは感じられないけれど、午後のゆったりと流れる時間を過ごすような大らかさがある。
急くばかりじゃなく、たまには木の下に腰を下ろして、休んでみるのもいいんじゃないかと語りかけられているようだ。
最後の一音まで弾ききると、大きな拍手が聞こえた。
「やっぱり、日野さんの音はいいよね。いつも聴いていたい」
「・・・・・・・・ありがとう」
「あ、本気にしてないでしょう?これは本当。いつもこの音が傍にあればって思う。日野さんに傍にいて欲しい」
爽やかな笑顔でそう言われて。
心の中で謝った。
ごめんね、加地くんが思うほど綺麗じゃなくて・・・。
いつも傍にいて欲しいと願っているのは私の方。
加地くんの才能には憧れる。でも、それだけじゃなくて嫉妬にも似た感情も確かにある。
これだけの才能を持っているのに、自分には才能がないと言い切ることが。
それだけの耳と情熱を持っているのに、演奏には向いてないと見切りをつけてしまうことが。
私以上の才能だろうに、なんでそう言い切ってしまうの、と怒りにも似た感情があったときもあった。
そう割り切るまで長い時間が掛かったとしても、そう言い切って欲しくなかった。
自分の才能を理解しないままで終わって欲しくなかった。
これは傲慢なことだと分かっている。だから言わないけれど。
あなたを好きだと思うのと同じくらい、あなたが嫌いで堪らない。
愛しさなのか、切なさなのか、慕わしさなのか、苦しみなのか。
感情が渦巻いてどうにもならない私を。
あなたは嫌わないでくれるだろうか。
この考えが一番傲慢なのだと分かっているのに―――。